
8.中国に向いた秀吉の野望
小西行長の面従腹背
九州遠征の後処置を博多で終えた秀吉は、小田原征伐と奥州仕置きを済ませて、いよいよ中国大陸進出への野望を明らかにした。天正十九年(1591)八月、天下人秀吉は長子棄松(鶴松)を弔った東福寺で、髻を切り、その場で明国遠征「唐入り」を宣言したのだった。天正十四年六月、すでに秀吉は九州遠征のとき、対馬の宗義調(よししげ)に文書で、朝鮮との外交の準備をうながしていた。秀吉はかねてから野望を明らかにはしていたが、いよいよ中国大陸に向けて領土と交易の実利を求めた破天荒の戦略を実行することにしたのである。
肥前名護屋城縄張りは黒田如水、石垣(普請)工事は黒田長政・小西行長・加藤清正、城の建物作事は九州諸大名、そして築城総奉行は黒田如水、御座所普請を浅野長政が受け持った。
天正十九年八月には、すぐさま京の西出口道から長州に至るまでの陸路と駅ならびに宿泊設備の整備、水路往来の整備など、数多くの朱印状が発給された。例えば、毛利輝元には大型船の建造と瀬戸内の物資輸送の受け持ち、さらに西海道を通る秀吉のための御座所整備と多くの役目を仰せつかった。大坂〜肥前名護屋には一里ごとに二人ずつの駛卒を{一里飛脚}として置くことになった。
国内統治は甥の木下秀次に任せることにして、秀吉は天正十九年十二月に関白を譲位、自身は「太閤」を名乗って、もっぱら外征のための指揮を取ることにした。秀吉から命令を受けた諸大名は肥前名護屋への移動準備と、さらに自藩の名護屋陣屋構築へ突貫工事に移った。特に九州各大名は、およそ半年のうちに、名護屋城の石垣普請工事と城建造作事、渡海用船の建造さらに太閤道路の工事と秀吉の街道宿所整備などをおこなった。加藤清正と寺沢広高(秀吉の肥前代官)は名護屋城築城と同時に海外出兵の準備もするという目の回るような忙しさであった。
博多の多々良橋設置・箱崎海岸堤整備、筑前往来継ぎ飛脚と継ぎ船を小早川隆景が担当した。諸大名が名護屋に来るまで、隆景は移送の仕事に追われ、第六番隊長としての釜山上陸は天正二十年四月十九日となった。
海外遠征にあたって、秀吉は諸大名に日本軍の軍団編成を指示した。立花宗茂は第六番隊(隊長小早川隆景)に属する。そして、御座所普請奉行〈浅野長政〉の手伝いをすることになった。天正十九年十二月には、秀吉の馬廻り八島増行や御座所普請の責任者長政から、宗茂に対して名護屋城築城の進行をねぎらう文書が届いた。外征の副総指揮黒田如水からも宗茂に書状が届いた。これらの書状を持参したのは、「九戸党の乱」で奥州再遠征に忙しい軍監浅野長政から命じられ、京から柳河にきた〈天野源右衛門〉だった。浅野長政から言い含められて、槍武者天野源右衛門は宗茂の家臣となることを覚悟してきたようだ。こうして、宗茂は浅野長政の名護屋陣屋の普請も手伝うかたちになった。名誉なことではあるが、弱冠二十五歳の宗茂には責任の重い役目であった。
天正二十年(1592)正月、小西行長と加藤清正に、秀吉から朝鮮渡海の水軍と陸軍の先陣が言い渡された。清正には、織田信長が使っていた軍旗が渡された。行長は自ら朝鮮王朝との交渉役を願い出て、秀吉からお墨付きをもらった。行長は朝鮮王朝を通して、秀吉と明国王との国際交誼を願うかたちに纏め上げようと図った。 秀吉の野望は秀吉ブレーンや近臣がみても、実現不可能とみる空想的な要求であった。だから、行長は石田三成・宗義智らと図って、秀吉への面従腹背の外交交渉を展開した。行長や秀吉ブレーンは清正が外交の前面に出て、秀吉の常軌を逸した要求を明側にあからさまにすることを極度に警戒した。知らぬは秀吉だけにしたかった。
〈黒田孝高〉が隠居を申し出たのは天正十七年。彼の本心は、秀吉政権の枢軸からはずされた不満と明国遠征の仕事からはずれようとする打算であった。いつも人を徹底して活用しようとする秀吉からすれば、〈くわんぴょうゑ〉の引退について、怒りをぶっつけたい気持ちであったろう。だが、秀吉も負い目があった。孝高には大坂の長柄に「天満屋敷」を与え、夫人には化粧料地を与えた。秀吉は官兵衛を遊ばせる気はなかった。天正十九年、「かんぴょうえ」に肥前名護屋城の縄張りを命じ、嫡男黒田長政には城工事を命じ、さらに朝鮮遠征第三番隊長とした。だが、天正二十年(文禄元年)の文禄の役においての黒田如水・長政親子の戦振りは、身命を賭して戦う小西行長、加藤清正の奮戦と比べるとき、秀吉は満足を覚えなかった。
天正十九年十月十日、肥前名護屋城着工、天正二十年二月城作事がほぼ完了。鎮西の丘に玄海に向けて、金色に輝く瓦葺の名護屋城ができあがった。諸大名の名護屋陣屋は城周辺に百十余ヵ所もびっしりと建てられた。いよいよ、秀吉は宗義智(よしとし)に米・白銀・兵器・火薬を与えて、通訳四十余人、海路案内人を若干名用意させた。そして、対馬に営舎を作らせた。松浦鎮信(しげのぶ)には、壱岐勝本に営舎を準備させた。
太閤秀吉は天正二十年四月十九日、小倉に上陸して、唐津まで陸路、唐津からは海路で名護屋城にはいった。船の中から名護屋城を仰ぎ見る秀吉の満足気な姿が思い浮かぶ。だが、太閤の目には血の出るような苦労と汗で築城した人たちの姿は見えなかった。小西行長・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄ら第一番隊が三月十二日、対馬府中に着陣、宗義智・小西行長が先に朝鮮王朝と交渉にはいっていた。
唐入り先導を拒否する朝鮮王朝を、秀吉軍は許さなかった。天正二十年四月十三日、第一番隊小西軍は釜山城を抜いていた。加藤清正・鍋島直茂・相良頼房らの第二番隊も四月十七日釜山に上陸した。秀吉が九州に到着したころの九州・四国の軍勢の様子は次のようなものであった。
総指揮大将宇喜多秀家の第八番隊は対馬、羽柴秀勝(織田信長四男)・細川忠興の第九番隊は壱岐に渡海していた。秀吉の水軍早川長政・毛利高政・弟毛利重政は朝鮮に、そして服部一忠・九鬼嘉隆・脇坂安治は対馬に在った。すでに一柳可遊・加藤嘉明・藤堂高虎水軍は壱岐にいた。石田三成・大谷吉継・岡本重政・牧村政玄が名護屋に居て、船舶停泊の管理と運用とを務めていた。
小西軍は、戦備不十分な朝鮮軍を圧倒して半島を北上、漢江の南忠州を四月二十七日に攻略していた。翌日忠州に現れた加藤軍は漢城攻撃について、小西行長と論争対立したと伝えられる。ルイスフロイスの記録によると、このとき行長が清正軍と行動をともにすることを拒否した。行長はあくまでも、朝鮮国王と講和を結びたかった。清正軍は行長を出し抜いて、漢城攻略に向かった。
天正二十年(1592)五月三日には早くも、小西、加藤両軍は漢城(現京城)に達していた。行長が対話を求める朝鮮王朝は平壌に逃れて、秀吉軍と講和することを拒否していた。五月六日〜七日、第三番隊黒田長政、第四番隊毛利( 森)吉成、第八番隊宇喜多秀家が陸続として漢城に集合した。平和進駐と戦争終結を望む行長と大陸侵攻を主張する清正との論争は続いた。今一度行長に交渉の役目を認めることに会議はまとまった。日本軍は五月二十九日、漢城の北部の開城(もと高麗の首都)に到達した。ここから、加藤軍二万は咸鏡道をめがけて東進、行長軍一万八千と黒田長政軍とは平壌をめざした。国王宣祖を追い求めて平壌に入った行長軍と黒田軍は、ここも無人の街になっていることを知る。国王は明との国境寧辺に逃れていた。行長は大同江に達して六月九日、ようやく朝鮮側李徳馨と会談したが見事に一蹴された。
朝鮮側の必死の求めで、明は遼陽の副総兵〈祖承訓〉の兵三千を南下させ、朝鮮へ先遣していた史儒〈王主官〉ら二千の兵とあわせて突如平壌に突入させた。七月十六日夜のことであった。これが秀吉軍と明軍との最初の交戦であった。明正規軍の矛先は厳しく、小西軍は平壌の維持も危うかったが、第三番隊(黒田隊、大友隊)と立花宗茂らが助勢に駆けつけて、ようやく小西軍は退勢を挽回できたのであった。明軍は大敗を喫し、史儒王主官は戦死、祖承訓は残兵をまとめて遼東に帰った。
小西軍の戦果が評価されるなか、明軍との野戦に打ち勝った第三番隊の黒田長政は、若者武人として、逞しく成長したのであった。八月一日、平壌はふたたび鮮軍巡察使〈李元翼〉のゲリラ的攻撃を受けたが、小西軍はこれを退けることができた。
日本軍の三奉行と軍監〈前野長泰・長谷川秀一・加藤光泰〉が七月十六日漢城に到着。黒田如水と浅野長政が秀吉のところから来たので、八月十日、毛利輝元(代理安国寺恵瓊)、小早川隆景ら現地諸将が集まり会議を開いた。朝鮮八道に分散している諸軍を漢城以北に集中することになった。第六番隊はまず小早川隆景と秀包が漢城周辺の守備に就き、平壌から全州に転戦していた宗茂と高橋直次はそのまま全州に残った。
〈小西行長〉は八月の軍団長たちの漢城協議に参加して、奉行から明との交渉のイニシアティブをとる了解を得た。行長は八月二十九日に明国の外交使〈沈惟敬〉と平壌郊外で講話交渉をおこない、日本側主張の七ヵ条を提示した。大同江以南を日本領とするものであった。明側の提案は五十日間停戦、明国王の意向を持って沈惟敬が再び和平交渉に望むというものであった。会談後、小西行長は動かず越冬の準備だけをして軍備は整えなかった。明軍はこのとき、着々と平壌奪回の準備を進めていた。明は経略〈宋応昌〉(そうおうしょう)と提督〈李如松〉に朝鮮救援を指示していた。これを知らずに行長は平壌市街戦で明軍を壊滅させた自信から、明軍の襲来はないと考えていたので、分散している日本軍の漢城集結は必要ないと主張した。ところが、黒田長政の予想が正しかった。
沈惟敬は天正二十年(文禄元年)十一月下旬に現れ、第二回和平交渉が開かれた。明の条件は大同江以南を日本領、日明貿易を再開したら日本軍撤退というものであった。停戦に続く交渉期間に、明軍四万三千の兵が鴨緑江をひそかに越え、文禄二年正月五日、平壌を包囲、同七日早暁から日本軍一万五千が守る平壌に突入、市街戦となった。行長は明からだまされたのである。城外の食糧蔵を焼失してしまった日本軍は、平壌を退去するしかなかった。
正月七日夜、日本軍が平壌を撤退するとき、病者と負傷者はうち捨てられた。明軍提督李如松将軍の追尾の厳しさに、雪中を食糧なしで逃げた兵士は具足も打ち捨て第三番隊の城砦鳳山(ボンサン)を目指して逃げた。このとき臆病風に吹かれていた大友吉統は小西軍を援けずに、鳳山から逃げ出していた。
このとき、第六番隊小早川軍団は 平壌〜開城 の守備を受け持っていた。平壌南の最前線である。前年九月まで、全州を転戦していた立花宗茂はこの文禄二年正月には、開城の北西牛峰(ウボン)砦に在った。平壌の危急を知った宗茂は、正月八日早朝、小西軍救援のために出動、十二キロ進んだところで黒田長政軍城砦竜泉(ヨンジョン)近くで、背走する行長軍三千人と遭う。明軍七〜八千人が後を追っているとのことなので、立花隊は助勢に出てきた高橋直次隊を加えて、五隊に分かれ潜み、明軍に襲いかった。明軍は混乱して、追尾をあきらめて平壌に戻った。宗茂はまた野戦の経験を重ねた。小早川秀包は平山砦から小西軍の救援に向かって賞賛を得た。
黒田長政隊が守る竜泉城砦に辿りついた第一番隊は八千人に減っていた。三成・長盛・吉継三奉行は平壌から開城に散らばる日本軍を一旦開城に集め、さらに漢城に移動させた。黒田長政と開城に在った小早川隆景とは退却を肯んぜず、奉行大谷吉継の説得でようやく漢城に下った。
ここで小西行長の肖像画について閑話させていただく。これだけ外交に活躍、キリスト教徒として著名な行長には肖像画の一枚もない。どうも宗教的理由から本人が描画を固辞したものとおもえる。そういえば高山右近の画像も見当たらない。
文禄二年(1593)正月二十五日、漢城に集まった軍団長は、漢城を守ることと開城に攻め返すことの二者択一を討議した。北上を主張する小早川隆景・立花宗茂の動議が通らず、総大将宇喜多秀家が漢城防備に重点をおくことにした。そして、漢城周囲の警備と巡邏の順番をきめた。小早川隆景、小早川秀包は漢城守備、宗茂と隆景の配下井上五郎兵衛・栗屋四郎兵衛が対明巡邏となった。
正月二十六日、宇喜多秀家軍から巡視を引き継いだ宗茂隊は午前二時、漢城北方十二`の碧蹄館(ピョンジュグァン)で明軍二、三百人を発見、夜明けに大軍が進撃する模様を察して、宗茂は全軍を進ませた。驚くべし、霧が晴れた前方に明軍六、七千人がいた。前日、秀家の斥候隊二百を殲滅した明軍であった。立花隊・高橋隊三千百人は先陣二陣と宗茂本陣に分かれて、明軍と対戦。早朝六時から午前十時ごろまで両軍が死力を尽くして攻防を繰り返した。明軍先遣隊は総崩れとなり一旦引いた。宗茂隊は八百余騎を残し、追撃で明軍二千余人をうち倒した。立花隊は三百人余が死傷した。十一時ごろ、大谷吉継が駆けつけ、ついで小早川隆景勢、宇喜多勢一万人、小早川秀包・毛利元康・吉川広家六千人が漢城から加勢に駆けつけた。
漢城をめざす明軍先遣隊は、早朝からの対戦で宗茂隊に先陣を崩されたが、本軍は李如松(りじょしょう)提督自ら出陣、午後から三万人余(二十五隊編成)を率い、朝鮮騎兵軍を加えて押し返してきた。
戦闘は宇喜多軍、毛利軍から仕掛かったが、両軍とも後退する苦戦状態であった。明軍に押される激戦であったが、小早川隆景軍が正面から挑んだ。隆景軍先陣栗屋四郎兵衛二千は突撃で千二百ほど倒れた。北方向の高陽付近に新手の明騎兵軍が参戦してきたが、せまい戦場が二、三日前の雨で足元がぬかるみ、騎兵の動きがにぶったところを立花軍鉄砲隊が左側面から、小早川秀包隊と毛利元康隊が右側面から攻撃に加わったため、連合軍は壊滅。李如松は落馬、危うく命をひろった。日本軍の戦闘指揮を隆景が執ったおかげであった。明軍は碧蹄館北方二十五`の臨津江(イムジンガン)まで逃げ延びた。日本軍の総指揮宇喜多秀家は逃げる明軍を追尾せよと指揮をしたが、日本将兵に余力がなかった。小早川隆景がこれを押し留め、立花隊の〈十時摂津〉が馬を横に寝かせて追撃を留めた。日本軍二千余の死傷、明軍はこれに三倍する首を狩られた。奉行石田・増田・大谷の調べで、立花隊は千百三十人に激減していた。
李如松は開城に戻り、再び漢城を覗う気配はみせなかった。だが、平壌の小西軍敗戦は、日本軍の士気に影を落とし、秀吉軍の戦意はなかなか回復しなかった。三成は宗茂の碧蹄館での活躍を大いに称揚し、秀吉に報告した。
漢城警備について、糧秣不足と越冬のため、秀吉の奉行は軍勢の南鮮への一時的撤退を考えていた。それゆえ、明との妥協的な講和交渉をする腹案をもっていた。交渉を有利に展開するため、太閤は朝鮮軍がこもる幸州山城の攻略を指示した。この山は文禄元年八月、細川忠興が攻略に失敗していたところである。
文禄二年(1593)二月十二日、総大将宇喜多秀家が指揮する漢城南部の幸州山城攻防戦は日本軍の意外な弱体振りを示すことになった。幸州山(ヘンジュサン)城は漢城十五`の漢江下流にあり、奉行三成、日本軍大将宇喜多秀家、前野長泰、吉川広家、小西行長らが戦闘で負傷する有様であった。碧蹄館の戦いで消耗していた立花宗茂隊は後備え、小早川隆景は病のために戦列を離れていた。碧蹄館戦後の小早川第六番隊の戦力は大幅に減っていた。指揮統制を欠く日本軍の城攻めは失敗し後退した。まず、先手小西行長や宇喜多秀家の軍勢に勢いがなかった。総指揮の秀家は経験不足の若将(二十歳)で、老将宇喜多忠家入道安心の補佐があったが、全軍を指揮する能力に欠けていた。小早川隆景がいなくては、日本軍はまとまりがない大軍にすぎなかった。
ここでも、幸州山城救援に現れた明軍を立花軍が撃退する功績が在り、三成ら奉行をよろこばせた。籠城した朝鮮軍将軍権慄(ごんりつ)は幸州山城を守ったにも拘らず、山城を自ら壊して放棄、臨津江に退いてしまった。朝鮮軍の状況判断が弱気に過ぎた。
幸州山城攻めの後、宗茂は漢城の南、漢江を望む龍山(ロンサン)の警備を受け持っていた。立花宗茂隊は精強さに目を付けられ、いつも前線に駆り立てられていた。青壮の盛り宗茂は二十七歳、あまりの酷使に軍内部は、組織統制が取れぬ危機的な状態にまでになった。団結と崩壊の狭間で宗茂主従は苦しんだ。このとき、若い宗茂は、戦場での人使いの難しさを知ったのであった。
中国との国境安辺辺りまで北上して、朝鮮二王子を捕らえていた第二番隊加藤清正・鍋島直茂は、咸鏡道の東部吉州での朝鮮側の武装蜂起と厳しい気象事情に悩まされながら、宇喜多秀家と三成ら奉行の連署指示に従って、文禄二年二月下旬ようやく漢城に戻り辿りついた。
このころ、奉行たちは日本水軍の制海権がなくなった事情で食糧の調達が難しくなったので、漢城から南部への一時撤退を検討していた。これは三成・行長・義智それに柳川調信(のりのぶ)たち講和派の主張であった。これに対して、咸鏡道から帰った清正は三成に激しく逆らい、臨津江沿に宿営する明軍の幕舎を襲い、食糧を奪ってきて撤退の意思がないことを示した。後日のことだが、清正は讒言されて、朝鮮から呼び戻され、秀吉から逼塞を命じられることになる。
三成にとって、加藤光泰と加藤清正たち強行派は明との交渉を妨げる目の上の瘤であった。光泰は秀吉に帰朝報告できるようになったとき、西生浦の宮部長房陣で三成に毒を盛られた。文禄二年八月末のことであった。急ぎしたためた光泰の遺書は嫡男加藤貞泰にわたった。
遺恨を抱いて甲州から美濃黒野藩に移動した加藤貞泰は、関ヶ原戦では、家康側に立って、戦功により愛媛大洲城をもらった。ついでにいうと、宮部長房は関が原の戦いで一旦は西軍側に立ちながら、東軍に寝返るなど旗色をはっきりすることが出来ず、父宮部継潤が築き上げた領国鳥取五万石を失うはめになった。
話しは逸れる。立花宗茂が二千石で新たに雇い入れた天野源右衛門は、織田信長を本能寺に襲った明智光秀の家臣で、信長に一番槍をつけた武者として有名であった。森蘭丸から下半身を切りつけられたが蘭丸を討ち取ったことが知られていた。本能寺の変後、羽柴秀勝(信長四男)、森可長、蒲生氏郷の家臣など、豊臣系武将の家臣を務めて、秀吉の小田原征伐には前野長泰とともに駿府城を預かるなどをしていた。どうも、心服できる主人でないと我慢できない性質であったようだ。
文禄の役では、宗茂の寄騎として活躍、漢城北部の碧諦館(へきていかん)の戦いでの槍働きが目覚しかった。文禄の役後、源右衛門は宗茂のもとを離れて、豊臣秀次に仕えた。だが、これも長続きしなかった。織田家の女を守るために、秀次に反抗したといわれる。そして、新しく唐津城主となった寺沢広高の家老を務めることになった。八千石の禄をもらって、唐津藩の重臣となった。秀吉の近臣時代から源右衛門と広高のふたりは交友があった。広高の勧めで源右衛門は『立花朝鮮記』を著している。宗茂はこの癇馬をよく使いこなしたものである。
小西行長と三成・長盛・吉継ら秀吉側近グループが目論む中国との講和路線は破綻したかにみえた。碧蹄館戦に大敗した明軍本営にも、膠着した状態を打開するために、講和を望む声があった。漢城に引揚げてきた清正に交渉接触してきたりした。半島南部の日本水軍は弱体なので制海権は失われ、漢城日本軍への水軍による補給事情が悪くなり始めた。秀吉は自らの徒海をあきらめ、漢城日本軍の南部への後退交渉を認めた。その後、文禄二年(1593)四月十八日から釜山方面へと日本軍は撤退した。釜山の防衛戦線で、宗茂ら第六軍団は釜山北部の警備と巡邏の役目を負わされた。
平壌停戦のとき行長を騙した沈惟敬(しんいけい)が明軍兵部尚書石星に連れられて、文禄二年三月漢城に再び現れた。行長と講和打診を始めた沈は明の将軍二人を明使として連れて、日本軍と交渉した。この講和折衝で明らさまになったのは、宇喜多秀家ら秀吉一族と政権を握っている奉行たち、そして奉行と誼を通ずる小西行長ら一部武将の政治的結束である。沈惟敬と明使は行長・三奉行と連れ立っては、名護屋城に五月十五日に現れて、秀吉と交渉した。行長と石田三成、大谷吉継は朝鮮にとって返し、六月二日、朝鮮二王子を沈惟敬に渡した。
太閤秀吉は、南鮮の日本領治をあきらめたわけでなく、交渉を有利に運ぶために文禄二年(1593)六月中旬に、晋州(チンジュ)の朝鮮軍を、九万三千の日本軍で攻めた。晋州の朝鮮軍救援に、明軍は各道から晋州に向けて進軍した。晋州北方の星州からは将軍琳虎が明兵一万、朝鮮兵三万の連合軍で救援に向かった。立花宗茂隊と小早川秀包隊は六月十三日これを迎え撃ち、連合軍に先制打撃を与えて星州に撃退した。立花隊はまたもや南進する明軍を追い払う戦功を立てて、日本軍の苦境を救った。
文禄二年二月、如水と浅野長政が秀吉の指示を伝えるため渡海してきたが、如水の気ままな行動が奉行たちの勘にさわった。文禄の役の朝鮮奉行三成・長盛・吉継は、隠居の身如水の横柄な仕事振りを指弾した。秀吉からすれば、文禄元年八月、病気になった如水に「すぐ帰国静養せよ」と心配りはしていたのに、この危急のとき秀吉を支えないとはどういうことか「お前は自分の代役のつもりでおれ」といいたいのである。
太閤秀吉は、明との講和条約を朝廷に奏上し勅許を得た。文禄二年六月二十八日、秀吉は明使に講和条件約七ヵ条を渡し、沈惟敬と〈小西如安〉を漢城に行かせた。漢城の宋応昌、李如松は行長に、晋州での日本軍の戦闘を責めた。行長は朝鮮二王子を返したにも拘らず、明軍が南進をやめないことを逆に非難して応酬した。行長は必死であった。如安に持たせた講和条件を、秀吉とは異なる国書にしてすり替えていた。このあたりをみると、行長のしたたかさは相当なもので、三成、吉継らと合意の上、秀吉を裏切る太っ腹なところをみせた。キリシタンとしてまた政治家として行長は大物である。
はしなくも、この文禄の役の対明交渉の代表たちが関ヶ原戦でそろって西軍に属することになった。秀吉の対明戦略とは異なる小西行長、宗義智、石田三成、増田長盛らの政治構想が次第にあきらかになった。このグループが清正ら武闘派に狙われるきっかけは、この文禄の役に芽生えていた。
文禄二年(1593)七月から秀吉は九州、四国、中国の兵三〜四万を残して、日本軍将兵を引揚げさせた。明の宋応昌、李如松も明王から召還され、明兵三万余とともに引揚げた。秀吉の講和条件七ヵ条を持って漢城に行った小西如安は文禄三年(1594)正月まで遼東にとどめ置かれ、北京入りはなかなか実現しなかった。明朝廷の方針が決まらなかったのである。文禄四年(1595)正月、明王は李宗城(りそうじょう)、楊方享(ようほうこう)に国書と金印を持たせ、それに小西如安の北京退去を許した。明王は秀吉に封を出すが貢は出さぬことを決めたのだった。四月、小西如安はようやく漢城にもどる事が出来た。文禄四年十月明使二名が釜山日本軍陣地に入った。
国内では、文禄四年に秀吉が豊臣家に変事をもたらしていた。関白秀次を高野山に追い、ついで自殺せしめ、さらに重臣を殺した。そして秀次の子女や妻妾三十人余を京の河原で殺害、聚楽第を破壊した。秀次の近臣など関係者の多くが追放、殺害された。例えば右大臣菊亭晴季、医師曲直瀬道三(第二代)を追放するなど、天下を騒がす大事件であった。秀次に関係する家臣と家族の多くが殺された。
秀頼の誕生が秀吉を狂わせていた。聚楽第門に張られた秀頼生誕を笑った狂歌を見逃したということだけで、十七人の門番が磔になった。太閤秀次に接近していた大名たちに恐慌が起こった。伊達政宗や老臣があわてて、妻子を人質として伏見に移した。秀次から借金した十六人の大名は弁明に大童であった。この秀次事件の経緯について、遠藤周作『男の一生』が詳しい。
翌年の慶長元年(1596)正月、行長と沈惟敬とが秀吉に拝謁、沈は良馬二百七十余頭などを献じた。行長は釜山にもどり、明使の名護屋城への渡海の準備と手伝いをした。三成と行長は講和の障害となっている清正を取り除かねばならなかった。秀吉に讒訴し、朝鮮から清正を呼び戻す工作をした。慶長元年四月のことだった。このとき、清正は竹島城の補強工事をしていた。帰国の途に着いた清正は秀吉に目通りさえ許されぬ蟄居の身となっていた。
慶長元年(文禄五年)六月、いよいよ明使が四百余人の従者を引き連れ、堺に入った。朝鮮使二名も同行して、行長も前後して日本に入った。外交は大げさなものであり、とてつもない手続きが必要である。三成にとって都合がわるいことに、七月十二日、伏見大地震が発生、指月山伏見城を失った秀吉のもとに加藤清正がはせ参じて、蟄居の身分が解かれる偶然の配慮が生じた。秀吉は九月一日、大坂城で明使を引見した。
明王は貢物に明王女を夜郎自大の秀吉に差し出すわけがなかった。「汝を国王になす」と封ぜられても「わが国には天皇がおわす」と秀吉は激怒した。秀吉の講和条件は叶えられず、国書すり替えがばれた行長は死を賜ることになった。三成ら三奉行を交えた外交交渉での行為であるとの釈明で、行長はようやく死を免れた。
秀吉の野望はやぶれ、外交は失敗した。慶長の役で日本将兵はさらに苦しむことになった。安国寺恵瓊は「豊臣政権はもう終わりだ。秀吉は狂った」と三原の小早川隆景に文を書いた。
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