9.慶長の役と諸藩の事情
        秀吉の天下操作

秀吉は慶長二年二月、諸侯に徒海の命令を出した。これに先がけて、清正は一番隊長として正月、再び西生浦に上陸。行長は二番隊長として熊川浦に入り、講和中に釜山城を守っていた宗義智(よしとし)・有馬晴信・松浦鎮信・大村純宣らと合流した。小早川秀秋は釜山城、立花宗茂は安骨浦城にはいることになった。秀吉軍は主力左軍と主力右軍とに分かれ、全羅道と忠清道の両道を制圧するために、九月半ばまで明軍と死闘を繰り広げた。秀吉の命令は、この二道の確保と八つの倭城(蔚山城、梁山城、昌原城、見乃梁城、固城城、泗川城、南海城、順天城)の築城であった。

秀秋は十六歳の若輩で、慶長の役には隆景に代わり渡海して釜山浦基地の総大将になった。立花宗茂は文禄の役に隆景の下で秀包とともに薫陶を受けていたので、成り行き上、秀秋の補佐をすることになった。釜山の守将小早川秀秋は七月、兵八千で密陽付近に陣取り、星州方面の敵に備える一方、左右両軍の声援体制を敷いた。

そして、〈宇喜多秀家〉を総大将とする左軍は七月二十八日、泗川に向けて釜山を出発。やがて南原城を攻略して全州に入る。さらに九月一日、石城に到着し、舒川城から「井邑」(チョンウ)に陣を移した。九月十六日、左軍の諸将が会議を開いた。

片方、秀吉右軍(毛利秀元・加藤清正・黒田長政・軍監太田一吉・同竹中重利)は、七月二十五日西生浦を出発西進、八月全州方面に侵入、左軍と会して北上。九月清正は清州そして鎮川に至る。秀元・長政は天安に着き、長政は稷山の明兵を破る。清正、尚州に退き秀元・長政と合流し、十月三日慶州に退き、蔚山城築城の準備にはいる。毛利秀元、加藤清正らが守備する西生浦は釜山から20`の東北海岸部を守る拠点であり。これから新たに築城する蔚山倭城の大切な基地でもあった。日本軍は秀吉が指示した倭城の構築に取り掛かっていた。

慶長の役、寧々夫人の甥秀俊(小早川秀秋)に関わったために、迷惑を蒙った人がたくさん出た。渡海基地釜山浦の司令官〈秀秋〉を補佐する役を仰せつかった宗茂もその一人であった。宗茂に対して気を遣ったのは、秀吉の周りにいた浅野長政や長束正家らの奉行であった。金吾中将が小早川家の若大将として朝鮮で指揮をとることが決まったときいち早く、文禄の役で苦労している在鮮の立花宗茂に書状をまわし、宗茂の方から金吾中将に挨拶するように促がしている。二人の間がうまくいくようにと、秀吉の近侍は気をもんでいた。案の定、朝鮮での秀秋は多くの愚行をくりかえした。左軍の「井邑会議」で宗茂の補佐能力が問題視された背景には、宇喜多秀家の宗茂憎しの感情もあったようだが、秀秋の存在が影響しているようだ。

ここで、〈小早川秀秋〉本人に焦点を当ててみる。まず、幼すぎる藩主を補佐する重役山口玄蕃助(山口正弘)の苦労が大変だった。山口玄蕃助はそろばん上手な能吏であったし、領民を統治する民政官(奉行)としての力量はあった。だが、若き藩主を補佐する役目は、荷が重すぎた。不幸なことに、子供のような領主に、領国領治の大切さを教えることは出来なかった。豊臣家の若大将は《うろんのきみ》と呼ばれていた。丹波亀山でも、博多名島においても、そして釜山でも愚行は治まらなかった。一緒に渉海した山口玄蕃助正弘の諫言はますます疎んぜられたという。

慶長二年(1597)七月上旬、秀秋は釜山に上陸した。宗茂はすでに三月末釜山に上陸して、秀秋を待っていた。半年あまりのあいだに、釜山浦の十六歳司令官は指揮者としての未熟さをさらけ出し、愚行を繰り返していた。とうとう石田三成を通して秀吉の知るところとなり、〈うろんのきみ〉は、伏見に呼び返されてしまった。

慶長三年四月、伏見城で、金吾中納言は秀吉から厳しいお叱りを受けた。そして、越前福井北の庄に転封された。知行は十五万石と筑前領の三分の一以下になった。このとき、隆景は既に現世にはいなかったが、隆景系の武将の多くが絶望したであろう。また、旧小早川隆景の奉公人だけでなく、傅役山口玄蕃助宗永も同じであった。この事件で、傅役も暗君のもとを去り、秀吉のところに戻った。徳川家康は、秀吉の没後、秀秋の復権に骨を折った。この時、秀秋は家康に大いなる借りを作ったのであった。

慶長二年(1597)九月十六日、秀吉軍左軍の宇喜多秀家・毛利吉成らは遠征のなかで井邑(チョンウ)に集まった。慶長の役の目的の一つ慶尚道・全羅道の制圧のために、長躯遠征し全州(チョルジュ)城を陥落させたところで、諸将が集まって会議を開いたのだった。会議の結果、宗茂の釜山在番の補佐役としての指揮能力を危ぶむ訴えが、遠征奉行長束正家・石田三成宛に連署でとどけられた。釜山基地の在番を毛利壱岐守吉成にして欲しいとの希望がそえられていた。宗茂は釜山浦在番を解かれ、小早川秀秋から離れて釜山北の固城(コソン)へ移動することになった。固城は釜山防衛と漢城に?がる全州への中継要所である。朱印状(慶長三年正月二十六日付)としては、後追いのかたちではあるが、宇喜多秀家らの要請に答えた指令書である。太閤秀吉は毛利壱岐守の固城在番などを拒否して、秀包・宗茂・直次・筑紫茂成に充てて「その方四人の事は、固城に在番つかまつるべく候、毛利壱岐守・同じく一手のものは西生浦に在番つかまるべきの旨、仰せ遣され候事」とある。

宗茂は、小早川秀秋のお守り役で被害を受けた。苦労したのに、小早川隆景と輝元がいない毛利軍団の代将として、宇喜多秀家ら秀吉近臣の武将たちから不満をまともに食らうとは思っても見なかったであろう。秀秋の朝鮮における愚行が、秀吉の耳に伝えられたとき、秀吉が発した怒りの声が宗茂にも達したはずだが、正家・三成ら奉行の宗茂への信頼は揺らいでいない。

毛利壱岐守吉成(毛利勝信)の名前がにわかに出てきたが、この武将は秀吉九州遠征のとき、功績をみとめられて、豊前小倉六万石をあてがわれた確かな人物であった。秀吉側近の黄母衣衆の一人、尾張出身〈森勝信〉である。秀吉の承認で、毛利姓に替えて〈毛利勝信〉と称したが、長州毛利一族ではない。豊臣陣では人望があった。徳川家康との相性もよかったらしい。後に、関ヶ原合戦では小倉城を守り、黒田如水と戦った。豊臣家に対する忠誠心が高い人で、山内一豊、加藤清正との親交があった。地味ではあるが、武将としての資質は誰もが認める人物であった。遠征軍の武将たちから名前が挙がるのは不思議ではなかった。

慶長二年十一月のこと。明国は朝鮮救援のため、威信を懸けて十一万の将兵を東・中・西軍に分け、鮮軍四万人余を加えて南下を開始した。同年十二月中旬、東路軍〈李如梅〉二万二千が突然蔚山城を包囲した。食糧の備蓄がない築城中の城なので加藤清正と築城軍浅野幸長、毛利秀元の旗頭宍戸元続が筆舌に尽くしがたい苦戦をした。

立花宗茂と毛利秀包は、このとき、明中路軍の南下を防ぐべく、般丹で懸命に戦っていた。明国中路軍の〈兵高策〉軍二万二千が般丹(パンダン)に現れていた。般丹は釜山から160`離れている。慶長三年正月、宗茂は加徳島、安骨浦城(アンコルボ)を離れて、釜山を圧迫する明軍と朝鮮騎兵隊を追い払うために、般丹に出陣。八百余の手勢で、明国中路軍に突入、七百余人を討ち取り、千六百人を捕虜とする大戦果をあげた。こうして新城蔚山城に籠る加藤清正、浅野幸長、毛利秀元軍らの秀吉右軍の苦境を側面から救ったのだった。

蔚山城守備隊の受難は続いていた。慶長三年五月、明軍が再び蔚山城を取り囲んだ。日本軍は毛利秀元、黒田長政、鍋島直茂、蜂須賀家政、加藤嘉明、長曾我部元親ら二万の救援隊が明軍を取り囲んだ。

一方、安骨浦城の宗茂隊は五月五日、蔚山城から30`の〈元濆〉で明軍を捕捉、翌六日、蔚山城から6`の〈全澄〉に進んだ。立花隊の金兜を認めた将軍〈梅伯〉は包囲を解き、退却をはじめた。これと連携して、蔚山城を囲んでいた明東路軍は漢城への退路を断たれることを心配して退却をはじめた。

篭城に徹していた清正隊は撤退する明軍を追って、兵五千が打って出て、約二千人の明兵を討ち取った。立花隊は蔚山城に入った。清正はこのときの立花宗茂の救援を終世忘れなかった。このとき、黒田長政、蜂須賀家政と早川長政らの水軍は明軍を追わずに、自城へ引揚げてしまった。自分の城の守備が心もとないという理由であった。救援軍は清正を援ける気持ちが薄かったと見られた。慶長二年春から、一年ちかくの遠征と倭城の築城に働いていた日本軍将兵に厭戦気分が蔓延していた証しともいえる。

〈蜂須賀家政〉と水軍〈早川長政・毛利高政〉軍監〈竹中重利〉は本国に帰還させられ、逼塞を命じられた。秀吉が慶長の役に派遣した朝鮮奉行〈福原長尭〉らを黒田長政、蜂須賀家政が逆恨みするのは筋違いである

秀吉は褒賞として、朝鮮奉行三人の働きに対して、大友吉統からとりあげた豊後の城のうち、水軍奉行早川長政に預けていた豊後府内を福原直堯に渡した。働きが少ないとみられた早川長政には、府内城に代えて木付城が渡された。福原直堯は秀吉の褒賞に報いるため、豊後府内に新しく城を築いた。海運を考えた城で、荷揚城と呼ばれ、慶長四年四月に完成したが、そのとき秀吉はこの世にはいなかった。

蔚山城救援戦をめぐる諸侯の恩賞についての始末を述べる。慶長の役に秀吉に代わり徒海した奉行たちが受けた恩賞は秀吉没後、水軍奉行早川長政を除き皆、大老家康から譴責を受けることになった。福原直堯は府内を取り上げられ、再び早川長政が府内城を引き受けた。木付城は細川忠興に与えられた。こうして、朝鮮戦役で秀吉から叱られた武将たちは名誉回復をすることができたのだった。

慶長三年八月、秀吉は家康に朝鮮渡海軍の引き揚げを託して死んだ。現地秀吉軍は、軍団個々の外交交渉で帰国を工面することになった。取り残された小西行長を救援するため、島津義弘、立花宗茂は水軍戦で大変な犠牲を払って、ようやく殿で博多港に引き揚げてきた。