
10.朝鮮半島引揚げと
西国大名の自国処理
慶長四年(1559)正月は、宗茂にとって感銘深い新春である。朝鮮から帰国したばかりの宗茂は、慶長三年十二月二十六日、暮れの押し迫まったとき、島津義弘、小西行長らを待ってともに上洛した。新春の伏見で、宗茂と小早川秀包・高橋直次・筑紫茂成らが、家康から朝鮮参戦の慰労茶席に招かれた。慶長四年正月七日のことであった。島津忠恒もこの茶席に連なっていた。日本軍最後の撤退をした島津、小西、毛利、立花隊の諸将に対し、亡き秀吉に代わり、家康が挨拶をしたのである。
そのあと三月九日に事件が起こった。島津の若き当主忠恒が五十歳近くの高齢の〈伊集院幸侃〉(こうかん)を伏見島津屋敷で生害したのである。茶室つくりの相談を持ちかけて、屋敷を去ろうとする幸侃をいきなり背後から切りつけたといわれる。これは謀殺である。勇者のする作法ではない。義弘は京都に出かけて不在であった。
この事件の後、義弘が幸侃の息〈伊集院忠実〉に出した返書の文面からすると、藩主の座を忠実に譲り渡していた義弘の苦衷が察せられる。忠実に対して、「島津義久に会い、身柄を預けるならば、決して悪いことにはなるまい」と返事している。忠実が重ねて「義久から許してもらえない」と訴えを聞いて、義弘は困ったであろう。娘御下(おした)の婿伊集院忠実と朝鮮で苦楽をともにした間柄である。婿が憎いはずは無かった。
秀吉から薩摩・日向・大隅三国の一括知行(五十六万石)を許された義弘と国許の兄義久との関係がこれまでも微妙であった。実質的に国主であった義久は、島津の筆頭家老伊集院幸侃と一族に対する敵愾心を、面にあらわすことはできなかった。秀吉が睨みを利かせている間は、おくびにも出すことは出来なかった。だが、もう遠慮する時期は過ぎ去った。秀吉に厚遇されてきた義弘の立場はいざ知らず、秀吉と石田三成との間を遊泳して、大名並みに動き回る幸侃を、島津義久は許すことは出来なかった。
この事件は秀吉政権に対する島津国衆の反抗である。慶長四年春三月十四日、義弘・忠恒と入れ替わるように領国に帰っていた義久は、石田三成宛に弁明書を送っている。『又八郎短慮の仕立て言語同断是非に及ばず候。曾て以って拙者へも談合これ無く候』としているが、三成は当然怒った。秀吉や自分の島津経略に逆らう反逆行為である。三成は、義弘を通して誓詞を義久から獲り返している。国許の幸侃の子源二郎忠実は、三月二十日に、父が殺害されたことを知った。伊集院家の家臣たちは、合議のうえで庄内の十二支城に家臣団を詰めて、島津本家に対抗する姿勢を顕にした。島津家の当主義久は、閏三月三日、このことを予期していたかのごとく、家臣から起請文を取りまとめて、庄内封鎖の指示を出している。伊集院忠実からの義久への訴えも、義久は聞きいれなかった。このあたりの義久の動きをみると、秀吉政権に対する積年の恨みを晴らす好機と考えたらしい。
話しは薩摩の太閤検地のことである。奉行石田三成が行った日向の検地が、のちに島津領の大乱を引き起こしたことを考えると、宗茂が島津義弘・忠恒にいたく同情しているのは、筑前・筑後検地のときの経験から、他人ごとと思えなかったのではあるまいか。秀吉死後の日向庄内の乱を治めるために、宗茂は本気で日向出陣を考えた。島津忠恒あてに援軍申し出の文書を出している。島津義弘は、宗茂の友情に感謝しつつも、柳河藩の厳しい経営実情を知っている島津藩の隠居として、宗茂の出動申し出を寺沢広高に謝絶してきたのだった。
文禄期の食料不足は、南国柳河でも深刻であったが、秀吉の奉行から検地をうける西国大名は皆困っていた。石高が大きくなるのは、秀吉の徴米が増えるだけではなく、軍役も増えるので、領主にとって死活問題なのである。このところが理解できない藩主は奉公人から嫌われ、領民から恨まれる。また徴税の使い道について領民からの理解が得られないと、藩の経営は自壊してしまう。薩摩は三成の検地に困っていた。
慶長四年四月、島津忠恒は家康の許しを得て乱鎮圧のために国許に帰り、伏見の義弘のもとに手勢二百人だけがのこった。替わりに、日向佐土原の島津豊久(家久嫡子)が、手勢四百人を率いて、義弘のもとにきた。豊久は国許を離れて伏見に孤立する伯父義弘を守るために、家の子郎党を率いて上洛してきた。後の関ヶ原合戦では、さすが猛将家久の子だけあって、この豊久の戦いぶりは凄かった。敵中突破の退却で、徳川軍を仰天させる豊久の働きは見事なものであった。
だが、この島津豊久も帰国の許しを得て、急ぎ国許に戻った。慶長四年六月から、島津忠恒は家康の忠実討伐の内意をうけて、討伐の総大将として、伊集院忠実を圧迫していった。七月九日付きの家康の内諾書『自今以後の為に候間早々成敗御尤もに候』を懐に、忠実を追いつめていく。これが「庄内の乱」である。
先に述べたように、伊集院忠実は義弘の娘御下(おした)の婿である。朝鮮戦役のとき、一度も国許へ帰らずに加徳島や泗川城に詰めて、島津軍の旗頭としてはたらいた。慶長の役、籠城していた泗川城から明軍追い落としで大戦果を挙げた功労者の一人であった。義弘に従う意思は十分にあり、日向都城から伏見へ、義弘の事態収拾を期待している書状を寄せている。
日向「庄内の乱」の歴史的意味
秀吉没後の大名家内紛で最大の争いになってしまった「庄内の乱」について少しばかり、考察してみたい。一言で言えば、この内乱は薩摩にたいする豊臣政権の十三年間に渡る干渉の末に、吹き出た咎めである。軍事強国薩摩が一枚岩にならぬように巧妙に干渉をつづけてきた豊臣秀吉と石田三成たち。宗家の当主義久と弟義弘との関係がまずくなるほどの秀吉の義弘厚遇、島津からみてかなり露骨な伊集院幸侃引き立て、文禄検地(文禄二〜四年)における薩摩奉行石田三成のえこ贔屓、若い忠恒を島津当主に選ぶにあたっての人事干渉等々、秀吉の封地政策があまりにも西国の歴史風土に絡みすぎたことが災いをもたらし始めていた。
「日向庄内の乱」は、文禄二年~四年の太閤検地における、検地奉行石田三成と総奉行〈大音新介〉の処置にかかわるところがあるようだ。検地のときの島津側立会い衆は〈長寿院盛淳〉〈伊集院幸侃〉の二人であった。検地後、幸侃(こうかん)は日向都城(みやこのじょう)を手に入れて、国衆北郷氏を北薩摩宮之城(みやのじょう)に追いやるようなことをしていた。
今や伊集院幸侃は、義弘の国領に近い日向庄内(都城盆地)に、太閤検地による国内国替えを利用して、八万石余の領地を持つ薩摩の長老格重臣になっていた。島津宗家義久や義弘よりも、秀吉に親しく接することが多く、薩摩担当奉行石田三成と懇意である強みを持ち、大名に近い政治力を誇っていた。伊集院家は伏見に、島津屋敷とは別に屋敷をかまえていた。幸侃は石田三成との友好関係を利用して、豊臣政権に密着していた老将であった。
また、日向には豊臣家が島津に食い込んでいる身中の虫みたいな直轄地問題があった。反秀吉を貫いた島津歳久の所領加治木を取り上げたりして、薩摩の国人を悔しがらせていた。島津領の中に、豊臣家の直轄地が十数万石点在していることは、島津家にとって藩の財政上からも大きな問題であった。日向にも豊臣直轄地があった。いったい三成はどの産物に目を付けて、直轄地にしたのであろうか。交易に必要な産物か、海運に使う材木がほしかったのだろうか。この点は研究して置くべきところだ。
義弘・忠恒との友好的関係を保っていた宗茂は、義弘の悩みに同情をよせていた。宗茂の周りでも、薩摩の内部抗争で緊張が走っており、その処理のために、家康と宗茂は談合をしている。三成一派の家康を襲う企てに宗茂が加わっているとの噂があったが、宗茂が家康襲撃を考えるどころではなかったことがお分かりいただけよう。宗茂の伏見屋敷は家康屋敷と隣り合わせである。宗茂は、自領柳河の戦役後の処置が待っていたし、薩摩の内乱への準備もあった。慶長四年五月中旬あたりに、ようやく伏見を離れることができた。筑後柳河に帰った。
柳河に帰った宗茂は、島津領内の講和の進み具合を見ながら、この件で再度の上洛をほのめかしていた。「伊集院儀、かの表一左右次第に出陣いたすべき旨、内府様よりも仰せつけられ、私にも随分御馳走申したき覚悟候」。一定の条件はあるものの、家康から派兵の許諾を得ていた。慶長四年九月、宗茂は上洛してきた。伏見において、義弘や家康などとの談合をすませて、同年十二月にふたたび柳河に帰省した。
やがて、慶長五年正月。家康は再度調停のために、山口勘兵衛直友を薩摩に出した。この頃は、忠実側の戦況が悪化していたので、調停はうまくいき、三月十五日に忠実が義久・忠恒に降伏し、島津と伊集院との主従関係は復活した。立花勢の日向庄内への派兵は実現することがなかった。しかし、日向の国土は荒れ、国力は落ち、多数の武士たちが散り果てていた。このことが、九月の関ヶ原合戦役における島津軍の駒不足となった。
島津忠恒が幸侃を恨む理由のひとつは、文禄の役・慶長の役の薩摩勢を支える薩摩本国の後方支援体制の弱さであった。戦費・兵力・物資の補充が不十分なために島津現地軍は苦しんだ。忠恒の兄久保(ひさやす)は文禄の役のとき、戦病死している。急遽呼び寄せられた忠恒は、一度も帰国できず、七年近くの半島滞在であった。これも、戦争被害である。幸侃は戦闘に加わることがないのに、同じ年頃の義弘は自ら二度も徒海して陣頭指揮を続けてきた。現地軍からすれば、義久も幸侃も何をしているのかと不満をいだくのは、無理も無かった。
島津は沖縄、南方諸島、中国大陸との修交を続ける必要があるので、急に介入してきた秀吉政権に権益をおいそれと渡したくない事情があった。島津義久の戦線拡張の反対姿勢を指摘している歴史家がいるが、この島津家の歴史的事情を理解しておかなければ、義久の考えを正しく評価することにはならないであろう。また、義久の戦意不足というよりも、藩全体の戦力不足と統制不備で戦線支援に動けなかった面があると言えるのではないか。薩摩藩内部に、反秀吉派があり、戦役忌避派が勢力を持っていた。義久も随分とつらい場面があったようだ。
例をひとつ挙げる。文禄の役のときのことである。一ヵ月半も船が来ないので、〈島津義弘〉が肥前名護屋で立ち往生していた。国許の水軍が動かないのである。挙句の果てに、曽於郡地頭梅北国兼(くにかね)が、平戸に来ていたのに肥後に逆行して、肥後の国佐敷城(城主加藤與左衛門重次)を乗っ取り、更に船団で小西行長の八代城を攻めた。島津歳久(義久・義弘弟)の家臣や阿蘇氏の家臣らが加わる一揆であった。加藤清正と小西行長がすでに渡海して、首都漢城を目指して進撃しているときに、佐敷城の城代をだまして、城を襲うとは一大事であった。これは、薩摩国人の秀吉に対する反抗であり一揆である。薩摩でことをあげずに、清正、行長が支配する肥後の国で、反秀吉の狼煙をあげているのが事重大である。肥前名護屋にいた島津義久はいたたまれなかったであろう。一揆の件を義久は、いち早く秀吉に報告している。他から秀吉の耳に入っては、疑いは義久にかかる。梅北国兼の首は名護屋の浜に晒らされた。
義久は島津領内の統制がとれていない失態を、秀吉にみせてしまった。事件処理のために帰国した義久に対して、秀吉は「一揆の黒幕を十人といわず、二十人といわず追討せよ」と命じた。黒幕主魁とされた宮之城主〈弟島津歳久〉は、病気理由に朝鮮出兵に応じていなかったので、秀吉の一揆討伐命令に、恭順の態度を示すしかなかった。討伐に向かった義久の手勢は涙しながら歳久を追った。歳久は兄に対して反抗する意思がないことを文書にし、辞世を残して自刃した。歳久の首は京都一条戻り橋に晒された。かつて、家久・義弘が秀吉に降伏したあとも、自領祁答院(けとういん)で最後まで抵抗したこの薩摩の勇者歳久は、いまは既に、体の自由が利かない中風だった。手が不自由な歳久は、小刀で自刃できないので体を石にぶっつけて、死を企てたが果たせず、あまりの苦しさに「お産のときの女性の苦しさはかばかりか。女性は大変だ」といったそうである。最後は家臣に介錯してもらった。歳久を祀る神社がお産の神様となっているそうだ。歳久の辞世はなかなか含蓄がある。晴れた天気のときの蓑のように役立たずと自虐している歳久は智力も胆力もある、すばらしい武士だ。
晴蓑めが玉の在り処を 人問わば いざ白雲の上と答えよ
歳久(晴蓑)の才能について、祖父の島津忠良は、こう述べている。「始終の利害を察するの智計並びなく」と。秀吉が島津に要求を突きつけてきたとき、四兄弟のうち歳久だけが、秀吉の農民からのし上がった経歴を重く見て、受けるべきであると、いったそうである。一旦、抵抗することが決まってからの歳久の戦闘振りは粘り強いもので、兄家久・義弘が降伏したのちも、祁答院の山際まで秀吉をおびきだして、秀吉の駕篭に矢を射掛けた。秀吉が島津末弟を憎むことは特別であったろう。
梅北一揆の黒幕ともいえぬまだ弱冠十三歳の阿蘇宮司家当主〈阿蘇惟光〉が、熊本花岡山で斬首された。相良一族に秀吉に讒訴するものがあって、阿蘇家は貶められものである。
また、釜山にいた肥前の筑後川域の〈江上家種〉もこの頃に、変死してしまった。憤死・悶死・狂死と憶測がとんだが、秀吉の龍造寺一族に対する冷淡な取り扱いに、龍造寺政家の弟江上家種は苦しんでいたようだ。薩摩の国衆と同じような思いを抱いていたのであろう。
このように、一揆とは直接の関係がない西国・九州の武家でも、程度の差こそあれ、怨嗟の気持ちを抱いていた者がたくさんいた。そして、諸大名の間に疑心暗鬼の心が芽生えていた。朝鮮にいた佐敷城主〈加藤與左衛門重次〉は梅北事件には驚いていたであろう。小西行長は、留守居が城をまもってくれたので助かった。朝鮮にあった小早川隆景は、死に追いやられた千宗易や博多に流された大徳寺古渓和尚のことを思い起こしたかもしれない。秀吉に逆らう気持ちを示したら、皆即座に誅罰をくだされる。
梅北一揆の後のこと。梅北国兼の妻女は大隅姶良(あいら)で捉えられて、名護屋の海辺で火あぶりの刑に処せられた。ルイスフロイスが『日本史』のなかで、夫人が毅然とした態度で刑の執行を受けている描写をしている。夫梅北国兼の一揆の政治的意味をわかった夫人の立派な態度がみえてくるようだ。地頭梅北国兼が引き起こした一揆は秀吉に翻弄された薩摩国人の命をかけた反抗なのである。国兼は大隅姶良町北山の梅北神社に、神様として祀られている。
今度は義久の弟家久の話をする。〈島津家久〉は、秀吉本軍が薩摩を攻めたとき、秀吉から毒殺されたと、噂が飛んだ。家久を直接殺したとみられるのは、九州東行軍団長羽柴秀長であるが、家久の配下が肥後領を犯したのが秀吉の怒りを買ったためと説明されていたようだ。どうも、歳久の殺害のときの理由に似ていて気になる。秀吉の意向が感じられる。島津家久は、肥後はおろか、筑後、肥前にまで戦線をのばして、島原半島で龍造寺隆信の首を獲り、さらに筑前博多を一時的に支配するまでに前戦で活躍した。
家久は、天正十四年十月、日向国境を越え、豊後に侵入、秀吉軍の先遣軍である仙石秀久四国軍と大友義統連合軍を、豊後戸次川(べっき)にやぶり、長曾我部信親と十河存保(そごうまさやす)の首を挙げる華々しい戦功を収めている。師団長仙石秀久は、戸次川の戦場から、小倉城まで逃げに逃げたという。秀吉を悔しがらせた猛将家久であるが、普段は古今の歌を詠み、茶人と交友をたしなむ優雅な風情の武人であった。室は古今伝授の樺山(かばやま)義久の娘である。
家久は薩摩・大隅・日向の統一なった記念に伊勢神宮詣うでをした。ついでに、連歌師里村紹巴の伝で上洛した。そのとき、戦場から安土城へ帰る馬上の信長をみた。琵琶湖に屋根船で紹巴と家久と遊ぶ明智光秀のことなどを『家久君上京日記』に著している。一流の文人である。また、祖父の忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と高い評価を得ている武人でもある。九州ほぼ全域をおさえる寸前まで、義弘と働いた島津の猛将であった。兄義弘と島津帷幕の双輪である。
翌天正十五年三月に、秀吉本軍の九州東部方面征伐隊が、羽柴秀長を頭に大軍団を擁して南下してきた。義弘・家久を先陣、義久を本陣とする島津勢は必死に交戦、四月十七日夜の白根坂戦で島津軍が敗走した。それから二十日後、剃髪した義久が秀吉の前に姿を現した。そして、家久は天正十五年六月、羽柴長秀と日向野尻で会見したが、家久は会見直後に急死した。家久暗殺は島津の戦力を削ぐ、秀吉の策略であったと見ていいだろう。
秀吉の狡猾さの例になると思うが、島津の国内経営は、秀吉の分断策で統括が難しく、薩摩一国としての戦力を整えるのに苦労した。そのために本国からの支援が薄かった朝鮮遠征軍は非常な困難な状況に陥ることが多かった。朝鮮戦役に要する戦費はすべからく藩の自前が原則であるから、渡海の用船、武器や装備、火薬と弾薬、食料、衣料を整える西国大名の苦労は非常なものであった。島津の軍兵は一領具足と呼ばれる自前装備の郷士たちが中心であった。にもかかわらず、戦時には主従が固く団結して戦う勇猛な軍団になることで有名であった。
なかでも島津義弘は統率力があって、戦場では優れた指揮をした。秀吉が四国勢で編成した九州遠征軍は島津軍の敵ではなかった。その後、豊臣秀長を頭にした秀吉九州東征軍が大勢でかかっても、なかなか島津軍は退却しなかった。だから、朝鮮遠征において、精強島津軍団は、文禄の役と慶長の役の間も南鮮守備から外されることがなかった。本国からの戦費は十分でなく、戦力補充は思うようにいかず、島津軍は苦しんだ。〈島津忠恒〉は一度も帰国できなかった。慶長の役では、島津軍は日本軍の最後尾に、立花軍とともに引き揚げてきたのだが。この島津酷使は、秀吉の分断政策の一環と私は考える。
秀吉政権に服属して後、島津領国の刷新を中心となって進めたのは、伊集院幸侃(こうかん)であったが、担当奉行は石田三成だった。日向の庄内に領地を持つようになった伊集院幸侃の勢力は、大名を凌ぐまでになっていたといわれる。秀吉が島津軍を重宝便利に使ったので、島津領の疲弊は三成が手を付けかねるほどに、悪化していた。徳川家康ら大老が、秀吉の遺命をやぶって、朝鮮から引揚げた義弘・忠恒の叙勲(参議と従四位下)と十万石の加増をしている。
朝鮮から帰国した忠恒はそれでも、伏見で幸侃を生害した。同時に、島津義久が庄内で幸侃の子息〈伊集院新二郎忠実〉を攻撃した。これは徳川家康の配慮を得て、意外な進展をみることになった。宗茂は忠恒を支援するために、庄内に自ら出兵することを家康に相談している。立花藩と島津藩との友好関係は藩主同士の相互信頼があるのでかなり緊密であった。
話を日向一揆に戻そう。幸侃生害の後、間をおかずに、義久が日向庄内を封鎖して、〈伊集院忠実〉を追い詰めていることを考えると、新国主忠恒が動きやすいように義久と忠恒が政治的事件を意図的に引き起こしたものと、私はみる。新国主が国人豪族を不用意に圧迫しては、独裁者秀吉に睨まれるが、いまは、島津取次ぎ奉行三成が秀吉後継政権の中枢から離れて、佐和山に隠棲しているときである。政治家家康がこれを見逃すはずはない。家康は忠恒の免罪と伊集院一族の追放の旗振りをすることにしている。そして、〈寺沢広高〉に九州諸大名への鎮圧出兵の指示を与え、唐津藩寺沢広高と家康家臣山口勘定兵衛直友とを薩摩に派遣して、事態の収拾をはかっている。
忠恒の幸侃殺害のあと、慶長四年閏三月八日、宗茂は島津義弘・忠恒と寺沢広高(正成)の四人で起請文を交わした。「こたびの談合について、心底残らず互に申し出候の儀、いささかもって他言申すまじきこと」と誓っている。時期的にみて、幸侃事件の処理について談合したものではなかろうか。寺沢広高を入れた起請文交換は朝鮮の役で辛苦を嘗めた武将同士の堅い友情を物語る。
富める豊臣家と蓄積がない西国大名特に九州大名との財政格差は大きかった。又、秀吉政権の奉行たちが、代官として各藩でおこなった領知政策が、あまりにも過酷なので西国大名は蓄積を持たなかったし、秀吉奉行に対する反発は当然であった。西国大名の酷使がのちに、豊臣政権の凋落の主因となっていることを指摘しておきたい。
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