
11.人たらし秀吉に、
時間切れの宣告
人たらしの秀吉の手だれに操られて、大名たちは、秀吉の言いなりに働いた。そして、秀吉独裁政権に極限まで奉仕させられた。例えば、六年間を越える朝鮮侵攻で得た大名たちの損益決算は‘骨折り損のくたびれもうけ’というものであった。侵略地の攻め取りの約束で渡海した小西行長、加藤清正らは、各々の軍団の消耗が激しく、戦費の消費が大きくて、戦地と自領地の経営に苦労した。むなしく帰還した将兵たちや遺族に宛がう報酬の財源に、諸大名は大変苦心した。朝鮮から引揚げてきた大名の領土は惨憺たる有様であり、領民は塗炭の苦しみを舐めていた。だから、派兵渡海で苦しんだ武将たちの、秀吉側近文治派に対する憎悪は、きわめて激しいものであった。渡海した武将たち同士は、命を賭けて働いた者同士の信頼と互助の精神的結紐があり、武闘派とよばれていた。武闘派の不満は本来、秀吉に直接向けられるべきものであったが、天下人にものを言うことは、恐ろしいことであった。秀吉がいなくなったいまは、文治派と武闘派との対立と言う、むなしい相克の構図だけが浮き出ていた。
秀吉の行状を悪くしたのは、すべて、本人の狡猾さと信長譲りの残忍さが主因ではあるが、政権中枢にあった奉行や旗本、取次衆たち吏使のお膳立てがあっての振る舞いである。ときには、石田三成ら奉行の権力の行使は行過ぎたところがあり、秀吉から追及を受けた人物の庇護が必要なときは、秀吉の座に近い前田利家、徳川家康、豊臣秀長らの調整やとりなしがあった。また、寧々や淀殿からの訴えでようやく事が収まることがあった。
秀吉の天下取りのなかで、多くの武将とその奉公人が犠牲者となった。織田信長の子息たちは安泰でなかった。〈織田信孝〉は柴田勝家を頼み、秀吉と戦い母と娘を殺された。信孝の母は、織田信長の側室である。皆まさかと思ったが、大恩人信長の夫人まで殺す秀吉の残虐さには皆慄然とした。信孝は自害に追い込まれた。家康と組んで対抗した〈織田信雄〉(のぶかつ)は秀吉の敵ではなかった。寄騎津川義冬(伊勢松ヶ島城)、岡田重孝(尾張星崎城)、浅井田村丸(尾張刈安賀城)に秀吉の引きはがしの手が伸びたということで、信勝は三人を謀殺してしまい、近臣の恨みを買った。小牧長久手の戦いでは家康の了解も得ずに、勝手に秀吉の和議の誘いに乗り、家康をこまらせた。後北条征伐に、秀吉に従ったが、戦後処理のとき、秀吉の領国配置を断ったので信雄は追放された。
織田信長の四男〈於次丸〉は幸いにも秀吉の養子であったために、信長の後継者を狙う秀吉にうまく利用されて〈羽柴秀勝〉として丹波亀山城をもらい、丹波中納言と呼ばれた。だが、秀吉の姉日秀の男の子三人が成長してきたので天正十三年秋、十八歳になったときなぜか病弱になり死んだ。信長の遺族としての利用価値がなくなったので暗殺されたといわれる。
その丹波亀山城を引き継いだのは秀吉の姉日秀の二番目の子〈三好小吉〉で、これも〈豊臣秀勝〉を名乗った。九州征伐と小田原征伐に参戦。淀殿の妹〈江〉こと小督を室とし、天正十三年、美濃岐阜に移ったので岐阜宰相といわれた。天正十九年、文禄の役で渡海したが、まもなく巨済島で戦病死してしまった。むすめ〈完子〉を遺した。そして、秀吉の競合相手信長配下の武将は総て蹴りおとされた。信長の四天王柴田勝家、明智光秀はたたき倒された。〈丹羽長秀〉はいつの間にか秀吉配下になった。信長に反抗していた足利義昭将軍は秀吉から都を追い出され、毛利家の翼下から顔出しをする哀れな存在になった。
全国制覇の標的とされた諸国に在国していた大名と国衆は、次々と秀吉の軍門に下った。四国征伐の後、最大の草刈場となった九州は、朝鮮への渡海のための軍事拠点として、秀吉軍の武将に割り当てられた。新しい九州大名と旧国人衆は職業武士として、徹底的に酷使された。秀吉の意向に逆らう国衆は許されなかった。秀吉に最後まで抵抗した薩摩は国として残ったが、勇猛な武将たちは誅され、領地は分割された。
越後から九州に移封された〈佐々成政〉は新封入地肥後での治世失敗をとがめられて、割腹させられた。成政に逆らった肥後旧国主たちは、秀吉から手痛い御仕置きを受けた。成政封地の後を受け持った〈小西行長〉は、新宇土城築城のとき、天草衆の反抗を受けたが、加藤清正の支援で危機を乗り切り、ようやく首の皮がつながった。だが、明国侵攻の外交責任者として、また、水軍の指揮官として、行長は秀吉に徹底的に追い使われた。
豊前に領国を当てがわれた〈黒田孝高〉は、豊前の国人を抑えることにもしも失敗したら、佐々成政の二の舞を演じて腹を切らねばならなかった。豊前の宇都宮鎮房一族は、黒田孝高に謀殺され消し去られた。同じように、菊池一族として諫早地方に長く歴史的領地を持つ〈西郷党〉は、秀吉の大名配置構想で行き場がなくなった柳河城竜造寺家晴から、諫早の攻め取りに遭った。西郷一族は平戸、肥後、薩摩に逃れて歴史から消滅してしまった。諫早地方は水ヶ江竜造寺家のものとなり、鍋島直茂の間接支配を受けるようになった。
全国制覇を成し遂げた秀吉は微賎の出であるから、武家の頭領征夷大将軍に成れぬことになったので、公家の猶子となり太政大臣と関白になった。それからの秀吉は独裁者となり、天下に恐名を鳴り響かせた。全国支配に向けて政道の相談に預かってきた千利休(宗易)を独裁に邪魔になりだしたために、おろかにも抹殺してしまった。茶道の指導者で工芸・美術の巨匠千利休は、秀吉の政道の御伽衆であったが、秀吉の朝鮮遠征と天下処置に賛意を示さないので、茶道の権威を振りかざしたことを理由に、秀吉から自害を命ぜられた。あろうことか、利休の首は一条戻り橋のたもとで、利休木像に踏みつけにされて晒されていた。利休の娘〈吟〉を殺してしまい、高弟山上宗二を切り殺してしまった秀吉は、利休の怒りが怖かったのではあるまいか。
死んだ信長の慰霊のために建立を思い立った「天正寺」建設を取りやめてしまった秀吉に、苦言を呈した大徳寺和尚古渓は博多に追放されてしまった。大徳寺には信長の葬儀を営むのに、秀吉は大いに世話になり、これをきっかけにして織田信長軍団の旗頭になることができた。秀吉は大徳寺を粗略にあつかうことは出来ないはずだ。だが、千利休も古渓和尚も、庇護者小早川隆景がどう心を砕いても、どうにもならぬ成り行きであった。そこかしこに秀吉側近石田三成、増田長盛、前田玄以、祐筆木下祐桂らの策謀が見える。もし、豊臣秀長が生きていたら、このような悲惨な事態にならなかったといわれる。組織のなかで、相互牽制の機能が失われては、組織の暴走と自壊が始まる。
宗教界も独裁者の足元に膝を屈することになった。秀吉軍九州遠征のとき、一向衆の顕如(教如の父)は従軍して、島津勢の鎮圧に手をかした。また、イエズス会はキリシタン大名とともに秀吉の九州支配を手伝った。だが、不幸なことにキリスト教の活動が武士階級のなかに拡がっていること、外国勢の領土所有を危険視した秀吉が博多で宣教師追放令を出した。キリスト崇拝者の代表として、高山右近は追放されてしまった。右近は、宗教観の違いから、秀吉と最後まで、人間交流が出来ない悲劇を味わった。「現世の支配者は、聖者キリストの権威と比べることができぬ」と、信仰を捨てなかった高山右近は大名の地位から追われた。最後は前田利家の庇護を受けながら、秀吉に尽くした右近だったが、それでも秀吉から忌避された。
朝鮮での働きが悪い武将は秀吉から譴責された。朝鮮・明との外交を、小西行長とともに担わされた宗義智の苦労は並大抵ではなかった。対馬は歴史的に朝鮮半島との経済交流で生きてきた島であり、朝鮮王朝からみた宗家は朝鮮属国の小藩主としか思っていないから、宗義智の立場は辛いものであった。明との修交を成立させたい一心で明国と外交をまとめようとした小西・宗の二人は、面従腹背のごまかし外交がばれて、死の瀬戸際に立たされた。
淀殿だけに秀吉の子供が生まれるのはどうも不自然だ。世間の口に戸を立てることができないのだが、秀吉は聚楽第表門に書かれた落首に腹をたて、門番十九人を全員処刑してしたうえ、加えて、石田三成に関係者を暴き出させて、これも一人残らず殺してしまった。秀吉は事実を覆い隠すために、現実をつくりだしていった。自分に言い聞かせるように、世間に淀殿の子を己の子として認めさせようとした。でも人の口に戸は立てられない。
秀頼の実の父は〈大野治長〉とうわさが広まっていた。私もその可能性が最も高いと思う。秀頼を身籠ったときの環境と時期について、条件がそろっているのは治長(はるなが)しかいない。成人秀頼の堂々たる体格、秀頼と淀殿を自分の命に代えて守ろうとした偉丈夫治長の姿勢がこれを雄弁に物語っている。「大野治長ご生母かつ淀殿乳母大蔵卿さま、このこといかがでしょうか」。
秀頼が生まれたところで、栄達の極地から悲劇に向かって転げ落ちるように、豊臣家は劇的終末を迎えることになった。秀吉が気づいたときは、夕暮れの風景に包まれて、周りの人影がまばらで、頼むべき人の姿が見当らなくなっていた。秀吉自身が老成するとおなじく、周辺の人も歳を取り、政道に尽くす人が次第に少なくなっていった。羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政、蜂須賀家政はあの世に早々と去り、前田利家など秀吉を助けた律儀な大名たちは年老いて、二代目への世襲交代が進んでいた。二代目たちは当然、親ほどに豊臣家に尽くすことはできなかった。
黒田孝高のような賢明な指導者は、秀吉から遠ざかり隠居を図っていた。小早川隆景は毛利家を守るために、筑前領を秀吉の義理の甥に譲り、遠い国に往ってしまった。浅野長政や藤堂高虎も次第に耄碌している秀吉との距離を置くようになった。朝鮮から帰朝した前野将右衛門長泰も関白秀次への近侍を遠慮していた。木曽川時代から川並衆として秀吉を支え続けた友人は秀吉から遠ざけられて過去の人になっていた。長泰の秀吉への友愛は遠い幻にしかすぎなかった。
秀吉はもっと周りの人材を大切にすべきであった。武将として、徳川家康に迫りうる人物は、秀吉の周りにはいなかった。石田三成のような行政官は威勢よく政治を壟断したが、この文官には人徳がなく、あまたの武将たちを統括することはできなかった。慌てたように、秀吉は、黒衣の宰相といわれる相国寺の西笑承兌(しょうたい)や増田長盛、前田玄以ら奉行に、次世代の準備を指示したが、政道は夜の帳に向かっていよいよ暗くなっていくだけであった。
豊臣家の家政については、秀頼の傅役前田利家に託したが、利家も時間切れ寸前であった。秀吉は政権中枢にいる者に唯頼むしかなかった。だが、木下家、浅井家、織田家には、豊臣家を任せることが出来る大人はいなかった。政敵徳川家康に頼まざるを得ないのでは、豊臣家の天下支配は、秀吉が願うようにならないことは自明であった。豊臣家守護の意味をこめて、三成は琵琶湖東岸の佐和山を受領し、築城に取り掛かった。でも、もう時間がなかった。
秒読みに追われる秀吉本因坊の打つ手は、確かにある構想に基づくものであった。京洛と大坂を取り巻く防衛圏を、全て秀吉の奉行と旗本そして豊臣一族とで固めようとする戦略構想であったようだ。秀吉の頭脳の中では、北から南へ、大谷吉継(若狭)、石田三成(佐和山)、京極高次(大津)、長束正家(近江水口)、前田玄以(伊勢亀山)増田長盛(大和)と南北防御線ができあがったようだ。だが、防衛武力として看ると、必ずしも的確な人的配置とはいえない。秀吉政権の行政官は幕僚としては一流であるが、武将としての経歴は必ずしも満足のいくものではなかった。関ヶ原合戦では、この弱点がもろに現れた。この野戦は囲碁対局に例えれば、練達の高段位者に対するに、棋論が鋭い若者碁士の挑戦を連想する。
秀吉が没する年に、慌てて移封した上杉景勝は、ろくに会津若松に落ち着くこともできずに、臨終の秀吉のもとに、駆けつけねばならなかった。上杉が移動したあと、北の庄城から春日山城へ移動した堀秀治は二十五歳そこそこの若殿で、後見には凄腕の堀長政がいるにはいたが、父堀秀政のようには、豊臣家に尽くす力がなかった。三成から粗略に扱われた堀秀治と家政堀長政は、結果的に徳川方に走ることになった。上杉討伐のきっかけをつくったのは堀氏である。秀吉と石田三成の大名再配置の苦心は、水泡に帰した。結果論だが、これならば上杉景勝の移封はすべきではなかった。秀吉本因坊の手筋の間違いである。残り時間がない秀吉は対局で悪手を打つたとおもう。
人生活劇の締めくくりのせりふとしては、辞世が、その人の生きるざまを示すものとして注目できる。秀吉の辞世は、やはり時代を描写したすぐれた作である。秀吉は死の床で孝蔵主に預けていた辞世を取り出して悲嘆にくれたという。もう、時間切れであった。
露とおき 露と消えにし わが身かな なにわのことは ゆめのまた夢
秀吉から聚楽第のなかの利休屋敷に呼び戻され、死を賜った千利休。この茶人の心境を著した詠が、娘お亀(おちょう)の手元に残されていた。辞世といってもよろしいかと思う。秀吉の生へ未練、家族への名残りの思いに比べて、利休の詠は対照的に、茶道の王者らしく、茶道を踏み荒らす無体な独裁者に対する怒りの気持ちが聞こえてくる。信長に茶頭として仕えた千利休は、秀吉が茶道を利用して、武将を掌握するためにいくつもの手わざを駆使したことを苦々しく思っていたであろう。利休の師匠武野紹鴎を密殺したといわれる信長と同じく、茶道衆山上宗二を気に染まぬの一言で首をはねてしまう、秀吉の似非美学に腹の底からの怒りをもっていたことであろう。詠は、腹黒秀吉の悪事に加担しない茶人宗易の剛毅さを示している。
ひっさぐる わが得道具の一つ太刀 いまこの時ぞ 天に抛うつ
秀吉の業績を総括するには、大君秀吉はあまりにもスケールが巨大すぎて、その足跡を辿るだけで大変である。秀吉総括は、やはり歴史学的な評価の基準で、まとめなければならないだろう。ここでは、中世社会を変革し、応仁の乱から百五十年以上も続いた乱世を終息に向かわせた織田信長に続いた偉大な革命家であるという評価をして置きたい。織田信長が始めた兵農分離を徹底し、守護大名に代わる武家大名を全国に配置し、足利幕府を消滅させた。確かに、武家中心の社会は兵農分離の制度で、ほぼ完成に近くなっていた。そして、大名の藩国を単位とする武家政権がまもなく誕生する前夜であった。ただ、人物評価の総括では、私は秀吉に辛い点を付けたい。
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