
12.関ヶ原合戦に臨む
島津義弘と立花宗茂の立場
秀吉と前田利家亡き後の豊臣家中まとめの役目と政権指揮、大老たちや大名たちの政権打算と人脈の策動、大名たちの治国と朝鮮・中国との対外終結の手続きなど、いま、国難とも言うべき国状にあることを読みきれる人物は多くはいなかった。大老徳川家康、毛利輝元、上杉景勝が力を合わせて、国難を乗り切るときであった。宗茂の胸中や打算はこれまでの政治家のつながりから、家康、輝元に期待するところがあったと思われるが、関ヶ原合戦までの宗茂はあくまでも秀吉侍従であり、旗本としての役目を終えたつもりはなかった。増田・長束・前田の三奉行の西軍参加の訴えには応えなければならぬと考えたのである。宗茂は清正の制止や、家康の幾度かの要請でも西軍参加を止めることはなかった。
日向の内乱を調停して、豊臣秀吉のくびきから抜け出す手助けをした家康は、島津を配下にすることが出来るとふんだ。大坂城にいた家康は、伏見の義弘を召して、「一朝ことあるとき、伏見城の守りに入ること」を約束させた。義弘は秀吉に引き立てられて、薩摩・大隅・日日向の統括者の地位を与えられた武将である。朝鮮から引揚げてから、伏見の滞在を続けてきたが、新藩主を息忠恒に譲り、国許の宗家は義久健在である今は、藩主の立場でものをいうべきでないと考えている。家康からの提案に対して、言質をとられるような無責任発言はしなかったらしい。家康は首を捻ったという。「薩摩人は理解し難い」と。宗茂ならば、義弘の腹の中は読めたであろう。この話は、家康が上杉討伐のために大坂城を出た慶長五年六月十六日以前のことと思う
。
義弘の言葉「伏見城入城の話はそれきりであった」というように、家康は義弘を頼むことをあきらめたらしい。その代わり、家康は伏見城西の丸守備応援に木下勝俊(小早川秀秋兄)を入れた。かくして、家康は伏見城に鳥居元忠を残して、上杉討伐へと江戸に向かった。島津義弘は鳥居元忠に伏見城入城を断られて、ことの成り行きで西軍に入ることになった。慶長五年七月十二日過ぎて、島左近と安国寺恵瓊が伏見薩摩屋敷の義弘を訪ねてきた。二人は、佐和山城会談の次第を持って、義弘に面談に来たのである。
宇喜多秀家が、慶長五年七月二日秀頼軍戦勝祈願と十二日徳川家康討伐の旗揚げをした。三十歳にもならぬ若い大老が豊国社湯立ちの神事をするとき、高台院(寧々)は姿を見せず代理しか出さなかった。上杉景勝、毛利輝元ともに在国で、京都には宇喜多秀家だけがいるというまことにまずい時期に打倒家康の祈願をしている。家康のシナリオに従ってというか、掌に乗って踊るような、秀家の政治的に未熟な行為であった。
「飛州は石高からして、二千五百人ほどの軍勢で十分なる馳走であるのに」と、島津義弘が宗茂の心意気に感じ入っている。旧主大友家、改易された肥後国衆の遺臣たちを抱えて、大軍団四千人ばかりを率いて、立花宗茂は慶長五年八月、大坂に上陸していた。ただ、このときの東西の政治情勢がかなり変容しており、世情は留めようもない騒然たる有様であった。小早川秀秋勢のような万を越す
西軍副大将宇喜多秀家は戦場で行方不明。石田三成と小西行長は伊吹山中で捕らえられ、安国寺恵瓊は戦場で毛利秀元と別れて、京都へ逃げて六条に潜んでいた。奉行長束正家は戦場から伊勢路を目指して逃れていったが、水口城に辿り着いたものの、東軍の池田輝政に引き出されて殺された。大坂城には、これを収拾できる人物がいないので、唯混乱があるだけだった。大坂城に籠城し徳川と一戦を交えようという宗茂や毛利秀元の提案を検討する者がいなかった。三成の佐和山城、福原長堯の岐阜大垣城の戦場終決をまとめるのは輝元以外にいなかった。だが、輝元は肝が据わっていなかったので終戦処理をせずに、大坂城を退去してしまった。
作戦面からみて、三成案つまり会津から近江関ヶ原への全国的連携作戦を展開するには、あまりにも距離がありすぎた。東征から一転西征に転じた家康軍を追わなかったために、上杉景勝・直江兼継軍は三成軍と東西から徳川軍を挟み撃ちすることができなかった。そして、その機会を待っていた水戸の佐竹義宣に、出動の機会が回ってこなかった。中山道を辿った徳川軍秀忠でさえも、近江戦場に入ることができなかったように、関東と関ヶ原戦場とは距離がありすぎた。
宗茂が友情を持っていた大老輝元は、西軍総大将としては期待を裏切る武将であった。関ヶ原合戦にいたる前半までの指揮は、恵瓊らの作戦に従って、順風に恵まれて動いた。関ヶ原の戦いが近づくにつれて、毛利軍団の反恵瓊派の巻き返しが激しくなり、関ヶ原合戦では、南宮山に陣取った毛利軍団は、山麓を押さえて動かぬ吉川広家、福原式部少輔広俊(毛利家家老)らの牽制をうけて、戦場に駆け下りることが出来なかった。毛利秀元軍は、眼下を通る家康本隊を襲うことも出来ず、野戦にも最後まで参加できなかった。南宮山東側に位置する長束正家・安国寺恵瓊・長曽我部親盛軍は、戦場から遠く、池田輝政・浅野幸長らに隔てられて動けず、これも一戦もできずに南宮山から、敗走することになった。広家は関ケ原合戦の寸前に、赤坂において、恵瓊には内緒で、家康との和平交渉をすすめていた。「知らぬは親父ばかりなり」である。毛利軍の指揮者毛利秀元も恵瓊も、これを知らなかった。
軍勢が、京・大坂に屯していて、侍があわただしくうごきまわり、商人や僧侶たちが、右往左往していた。為政者たちが右顧左眄している天下の一大事であった。
宗茂が大坂に着いたとき、西軍の旗揚げはすでに済んでいた。また、伏見城攻撃もすでに終わって、城の守将鳥居元忠(下総矢作六万石)以下徳川方全員が八月一日に玉砕していた。ついでに述べておくが、家康から伏見城守備を頼まれていた木下勝俊は、伏見城から逃げ出して、豊臣家の名誉を著しく傷つけていた。木下勝俊は、文人としては名を残したが、父木下家定と叔母寧々(高台院)は面目丸つぶれであった。
大坂に上陸した宗茂は、輝元の要請に従って、東海道伊勢口の警備と大津城の監視に就いた。主に、瀬田の街道を扼する松本山に陣を張り、戦雲あわただしい近江の交通を掌握していた。次に、東軍側に旗色を明らかにした大津城を攻撃し、毛利秀包と力をあわせて、落城させる大いなる戦功をあげた。秀包と宗茂は京極高次の高野山追放などの戦争処理にたずさわった。秀包は大津城守備に残り、宗茂は、運命の九月十五日、大津城を出て関ヶ原合戦場に向けて進軍した。そして、立花軍は草津付近で、西軍の大敗を知ったのであった。立花軍は戦国歴史の表舞台に登場することはなかったが、島津義弘とふたたび組んで、徳川家康に抵抗することになった。よもや、これで豊臣家との縁が切れることになろうとは、さすがの宗茂も、このときは予感できなかったであろう。
立花軍が大坂に帰り着いたときの大坂城は混乱の極にあった。西軍総大将毛利輝元が関ヶ原合戦の処理指揮を取る腹がなく、奉行増田長盛も、大坂城で西軍諸将に戦後処理の指示を与えることが出来ず、秀頼傅役の役目柄を後生大事にし、家康からお目こぼしをもらって、大坂城から大和郡山城に退去することにしていた。輝元大老の元で奉行をした前田玄以は、豊臣政権の内政を取仕切った官僚として、また、内裏との交渉役の経験を認められて、家康の戦後処理の手伝いをした。三成の挙兵に反対していたので、家康に許してもらったらしい。
西軍副大将宇喜多秀家は戦場で行方不明。石田三成と小西行長は伊吹山中で捕らえられ、安国寺恵瓊は戦場で毛利秀元と別れて、京都へ逃げて六条に潜んでいた。奉行長束正家は戦場から伊勢路を目指して逃れていったが、水口城に辿り着いたものの、東軍の池田輝政に引き出されて殺された。大坂城には、これを収拾できる人物がいないので、唯混乱があるだけだった。大坂城に籠城し徳川と一戦を交えようという宗茂や毛利秀元の提案を検討する者がいなかった。三成の佐和山城、福原長堯の岐阜大垣城の戦場終決をまとめるのは輝元以外にいなかった。だが、輝元は肝が据わっていなかったので終戦処理をせずに、大坂城を退去してしまった。
作戦面からみて、三成案つまり会津から近江関ヶ原への全国的連携作戦を展開するには、あまりにも距離がありすぎた。東征から一転西征に転じた家康軍を追わなかったために、上杉景勝・直江兼継軍は三成軍と東西から徳川軍を挟み撃ちすることができなかった。そして、その機会を待っていた水戸の佐竹義宣に、出動の機会が回ってこなかった。中山道を辿った徳川軍秀忠でさえも、近江戦場に入ることができなかったように、関東と関ヶ原戦場とは距離がありすぎた。
宗茂が友情を持っていた大老輝元は、西軍総大将としては期待を裏切る武将であった。関ヶ原合戦にいたる前半までの指揮は、恵瓊らの作戦に従って、順風に恵まれて動いた。関ヶ原の戦いが近づくにつれて、毛利軍団の反恵瓊派の巻き返しが激しくなり、関ヶ原合戦では、南宮山に陣取った毛利軍団は、山麓を押さえて動かぬ吉川広家、福原式部少輔広俊(毛利家家老)らの牽制をうけて、戦場に駆け下りることが出来なかった。毛利秀元軍は、眼下を通る家康本隊を襲うことも出来ず、野戦にも最後まで参加できなかった。南宮山東側に位置する長束正家・安国寺恵瓊・長曽我部親盛軍は、戦場から遠く、池田輝政・浅野幸長らに隔てられて動けず、これも一戦もできずに南宮山から、敗走することになった。広家は関ケ原合戦の寸前に、赤坂において、恵瓊には内緒で、家康との和平交渉をすすめていた。「知らぬは親父ばかりなり」である。毛利軍の指揮者毛利秀元も恵瓊も、これを知らなかった。
広家は毛利家安泰のために、徳川家康との外交交渉で、密かに誓紙を出していた。誓紙の中身は、『此度の西軍側に味方した行動は、全く恵瓊一人の謀略で、輝元の預かり知らないところ‥‥』と、再三弁明した形になっていた。此度の広家の交渉仲介は黒田長政であった。広家と長政の二人は、秀吉の九州遠征以来、肥後一揆、朝鮮遠征と戦場における結びつきが強かった。これまでの行動を見る限り、ふたりは軽薄、粗暴、薄情さが似たり寄ったりの性質の人物である。結果的に広家らは、毛利輝元のはしごを外して、毛利家を引き倒したことになった。
〈吉川広家〉の経歴を簡単に紹介しておきたい。広家は〈吉川元春〉の末子三男。秀吉の九州遠征の戦線で、父と長兄元長を失って以来、出雲・伯耆の大名として、小早川隆景と比肩されるような毛利一統の重要な立場に置かれていた。父元春の遺産が大きかったので、広家は毛利家一族として重用されてきた。人物としては、先に述べたように、激情型行動派なので、行過ぎた行動をすることがあった。広家は父元春の秀吉憎悪の気持ちを引き継いでおり、あの温厚な浅野長政を路上で刃傷に及ぼうとして、騒ぎを起こしたり、安国寺恵瓊の秀吉への仲介を心快しとせず、ことごとに恵瓊に対抗する動きを繰り返してきた。朝鮮戦役において、広家は戦意不足を秀吉から譴責されたのだが、これは恵瓊の軍監報告の所為であると思い、恵瓊に対する極度の反感を示すようになったとされる。
関ヶ原合戦のあと、恵瓊の京都潜伏を徹底的に追及するなど、毛利軍団の武将同士とは思えないひどい行動をしている。黒田長政と組んで、毛利家を分裂させることになった。これでは、家康から手玉に取られるようなことになる。これは輝元の落ち度ともいえると思うが、隆景亡きあと、毛利宗家の自分と嫡子秀就とを補佐する家長を毛利秀元に決めたのが慶長三年だった。長府藩の毛利秀元は豪傑であったが若年であった。だから、毛利家の大事について吉川広家に容喙させてきたことが、宗家転落の原因となった。輝元には人を御す威力と状況判断の能力が西軍の大将として不足していた。
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