
13. 関ヶ原合戦に臨む、義弘と宗茂
輝元に大坂城退去を勧めたのは広家であるが、輝元に政治的判断力があれば、こんな事態にはならなかった。西の丸から大坂木津屋敷に戻った輝元に対して、徳川方は輝元の所領全部を取り上げた。そして、防長二国を広家に当がった。この通知は、西軍大名に対して最も早く通知されたものである。広家は徳川家康に懸命に働きかけて、二国二十九万石余は毛利秀就に当てられることになった。広家の領国はなくなり、大名から毛利家の家老(岩国城主)の地位に転落した。広家は結果的に、黒田長政、福島正則そして徳川方井伊直政に騙されたのである。いや、この三人に回答させた家康の術中にはまったのである。
西軍総大将輝元に、保険をかけてから、戦に臨むようでは、勝負在りである。鳥居元忠を捨石にして、反徳川側をあぶりだす決死の闘争を試みた家康の非情、捨て身の戦略が成功した。隆景が健在であれば、輝元の西の丸退去や剃髪など、降参の儀式を自らすることは賛成しないであろう。一度は、家康に対抗する戦陣を組んだのであるから、宗茂や毛利秀元のいうように、一戦に及ぶ覚悟を示してから、終戦交渉をすべきものである。島津の戦後処理のしたたかさを見習うべきである。関ヶ原合戦と平行して、北部九州でも豊後・肥後などで東軍・西軍戦が戦われていたが、ここでも毛利軍の作戦は実らず、黒田如水、加藤清正に名を成さしめた。
関ヶ原の戦いに西軍が敗れてから、近江路を辿り京都に来た宗茂は、京都所司代木下家定へ連絡に走り、「高台院の御身を守り大坂にお連れします」と申し出て、家定を当惑させている。高台院は自分の身を守る手は打ってあった。甥小早川秀秋に対しては、徳川家康に味方することを寧々は教示していた。大坂に上陸した小早川秀秋は、大坂城に入らず、伏見城の兄木下勝俊を訪ねて伏見城に入るつもりであった。高台院をも訪問、相談している。筑前軍の小早川家には、毛利系の重臣ばかりではなく、家康の息のかかった重臣が配置してあった。小早川秀秋が東軍に入りたがっていることは、すでに三成側の知るところになっており、岐阜大垣城での西軍の作戦会議に多大な影響を与えていた。赤坂から西へ進軍する徳川軍を迎え撃つには、関ケ原が絶好点であることは異論が少ないところであった。小早川軍を牽制するには、三成がこれあるを想定して築いていた松尾山陣屋に、西軍総大将輝元を入れるしかないと衆議は決した。運悪く、輝元への連絡隊が東軍に捕らえられたのが、西軍の齟齬であったといわれる。輝元が関ヶ原合戦場に入る戦機は失われた。戦場を扼する松尾山の陣屋には小早川秀秋が入ってしまった。三成・秀家たちの誤算である。
輝元の優柔不断な態度に、憤慨した宗茂は、大坂に預けて置いた宗茂の母を立花大坂屋敷から奪いかえして、九月末柳河に辿り着いたのであった。不幸なのは、小早川秀包である。久留米城は如水・勝茂に調略で乗っ取られたうえに、室桂姫と嫡子元鎮と息女が捕えられていた。秀包は宗茂の激励にも拘らず、輝元に倣って剃髪、長府に身を置くことにしていた。憤慨した立花軍の誰かが放った鉄砲の弾が、秀包にあたり、これが故で、長府で静養したが、まもなくなくなったという説がある。これは事実かどうか判らない。秀包の終焉の形が哀れを誘う。ようやく春陽が訪れようという慶長六年三月のことであった。三十五歳であった。
毛利家の文書で、秀包のこのときの様子を引用させてもらう。『関ヶ原表戦破れ、輝元公御法躰に付、秀包も御届けとして大徳寺玉仲和尚戒師にて剃髪致し、羽柴筑後入道道叱と改め申し候。立花統茂とは兼て兄弟の契約仕り懇意に付、統茂申され候は、秀包御本家えの御届け是までに仕り、一先づ帰国致し、久留米・柳川一致に成り、東国方と一戦を遂げ、一しお付け、扱ひを致し、和睦の上関東罷り下り、家康公、秀忠公御理申し上げ、本領安堵仕るべきの由頻りに進められ候へ共、毛利家の安否此時に候間、一筋に本家へ対し、如何様とも身命を抛つ心底の由申し切り、大坂より船に乗り罷り下り候処、船中より風気相煩ひ、同年霜月末赤間関下着、南部に於て宮本二郎大夫と申すもの宅にて養生仕り候。それ迄家人五百余人附慕ひ候事』(毛利伊豆広包)
文禄・慶長の役で、宗茂は、小早川隆景、島津義弘とともに戦った。そして、毛利秀包、島津忠恒と義兄弟の誓いをするまでに、相互に信頼を高めることができた。また、宗茂は関ヶ原合戦後、秀包と大坂で不本意な別れ方をするまで、秀吉に命ぜられるまま、佐々成政救援から、朝鮮渡海そして関ヶ原合戦まで共に戦い続けた。信義にもとづく二人の行動は称えられていい。
徳川家康の毛利輝元に対する峻烈とも言うべき処置は、輝元の性根を少しは変えることになったのではあるまいか。毛利取り潰しを狙って、次々に持ちかけられる難題に、家臣と力をあわせて、輝元は吉川広家から譲られた防長二国の藩政の基礎を固めていった。ここで、家康が毛利藩自壊を期待した無理難題をかぞえあげてみる。
・毛利旧領の徴米について、受領した福島正則らの返済要求(慶長六年)
・輝元への大坂木津屋敷さらに伏見屋敷滞在命令
(輝元帰国許可は慶長八年十月)
・嫡子秀就を質子として江戸へ徳川預る(慶長六年)
・伏見城普請手伝い指示(慶長七年)
・江戸城普請手伝いと徳川家臣屋敷の普請手伝い指示(慶長七年〜慶長八年)
・井伊直政居城佐和山城の修復手伝い指示
・輝元江戸入りの指示(慶長八年四〜五月)
桜田の地に毛利上屋敷落成(同八年八月)
・江戸城普請手伝い指示(慶長十一年)
・萩城の築城、本多正信が指示(慶長九年~十三年)
・駿府城の石垣普請指示(慶長十二年)、焼失に付き修築指示(同十三年)
・結城秀康の娘と秀就の婚儀執り行い、桜田屋敷普請(慶長十三年七月)
・名古屋城の普請手伝い指示(慶長十五年)
・毛利による防長二国検地の報告、徳川の承認三十九万石(慶長十六年)
徳川の要求を並べただけでも、このように多くの幕政令が出された。毛利輝元の苦しみが、これで察しがつくであろう。敗者にはなりたくないものである。これらの徳川からの干渉については、近衛龍春著『毛利は残った』に拠った。
慶長十九年の大坂の役で、毛利秀元と組んで、家臣内藤元盛を大坂方に潜り込ませるなど、対徳川戦略に揺るぎを見せたが、このお家の危機を何とか乗り切った。輝元は随分としたたかになったものである。
歴史に「たら・れば」はないのだが、毛利家が、木下秀俊(秀秋)を養子として抱えこむことが無かったならば、慶長五年以降の日本の歴史は随分と違っていたであろう。宗茂には、寧々(高台院)の甥秀秋が豊臣の歴史を覆すようなことを仕出かすとは見えていなかったのではなかろうか。唯々、豊臣家の御為として、石田三成に味方すること、そして輝元に対する友情を示したい一心であった。宗茂は誠実な武人であった。そして、宗茂と秀包は、秀吉の旗本「柳河侍従」「小早川侍従」として、関ヶ原合戦まで豊臣家のために、ともに懸命に働いた。
宗茂の人間性が最も端的に表れたのが、関ヶ原の戦いの西軍参加であった。秀吉政権を取りしきった奉行職たちに対する反感から、文禄の役・慶長の役で、ともに戦った加藤清正、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、福島正則、加藤嘉明、吉川広家らが、朝鮮引き揚げ後から反石田の旗色を鮮明にしたのに、宗茂は違った。この武功派衆に加わることをしなかった。宗茂は私人の個人的感情・私憤で行動することはできなかった。
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