14.九州東軍・西軍の役
                  清正と宗茂

少しばかり遠回りするようだが、大友王国が凋落したところから説明する。天正十年前後は、秋月種実と秋月一族が、大友勢力を駆逐して北部九州を支配していた。天正七年春に、反大友の高橋鑑種は亡くなっていたけれども、大友領の豊前・豊後さえも騒擾の地となっていた。大友宗麟が天正十四年(1586)三月、大坂城の秀吉の許に駆け込み、縋るようにして、臣下の礼を取り、守護大名の地位を保とうとした。秀吉は大友宗麟を家人とし、大友家臣のうち、高橋紹運と立花宗茂とを秀吉の旗本として宗麟から受け取り、九州北部の支配に手を染めることにした。ちょうど、秀吉は四国征服を終えたところであり、四国領治の仕置きを済ませていた。宗麟が現れたのは、秀吉が全国制覇にむけて、九州遠征を考えていた格好の時期であった。秀吉は、すぐさま毛利輝元に九州遠征を命じた。

天正十四年六月、九州遠征毛利先遣軍と軍監黒田孝高の軍が九州上陸。将に島津と秋月の手に落ちかけていた立花城と筑前領の命脈をようやくつなぎとめることができた。だが、高橋紹運が護る岩屋城は、島津・秋月連合軍の攻撃に晒され、紹運と岩屋城兵六百七十余人は全員討ち死にしていた。宗茂の母宗雲院は島津軍の手中にあった。また取り残された宝満城の高橋直次は、筑紫広門の裏切りで、若い室(広門の娘)とともに島津軍に捕われていた。しかし、立花城を包囲した島津軍は、毛利軍の筑前接近をみて、筑後と肥後に後退した。

また、秀吉配下の毛利軍・黒田軍が、秋月の勢力下の門司城、小倉城、松山城、箕島城、宝山城、障子岳城、馬ヶ岳城、宇留津城と、次々と開城していった。これらの城は、高橋鑑種の働きで、かつては毛利の支配の及ぶところであった。筑前から島津が退いたとき、秋月種実は、秀吉軍の強大さを知るべきであった。だが、種実の次子高橋元種は、島津軍が豊後で、果敢に秀吉四国派遣軍に抵抗しているのをみて、筑豊香春岳で頑強に抵抗、毛利元長・小早川隆景・黒田孝高になかなか降参しなかった。背後に秋月種実がいたからであった。

一方、豊前、豊後は、天正十四年秋に、秀吉先遣四国軍が豊後上陸を果たしてから、一時的に政情が落ち着いていた。ところが、吉川元春・小早川隆景の毛利軍が高橋元種、秋月種実攻略に手間取っているところに、何を考えたか、大友義統が豊前宇佐に四国先遣隊仙石秀久と連合して出動してしまった。手薄になった豊後地方が島津の侵攻で荒らされることになった。大友家臣が恐れていた島津の豊後侵攻は、秀吉が強く警告していたところである。義統はあわてて、豊前に出兵していた軍団を府内に返した。しかし、豊後に迫る島津軍に義統では対抗出来ず、戸次(べっき)川敗戦で府内に帰ることも出来ず、別府湾の高崎山に籠った挙句、豊前の竜王山城に逃げ込む有様であった。

その後、天正十五年春、羽柴秀長遠征軍が島津勢を日向へ追い払ったので、義統は逃げだしていた豊後府内に、ようやく帰りつくことが出来た。義統は秀吉に臣下の礼を取るようになって、〈吉統〉と改名している。その後、朝鮮遠征第三隊(黒田長政)に配属されたとき、吉統は秀吉への恩返しに、六千人を数える大友軍を編成して渡海していた。府内城には家督を譲った嫡男大友義乗を残して置いた。

渡海した次の年の文禄二年正月六日、平壌から南方十四里の黄海道鳳山(ボンサン)の城砦にあって、吉統は明の大軍に襲われた小西軍の救援要請の使者に会っていた。何事も自分で決めきれない小心な武将は小西救援に赴かず、黒田長政に連絡した。黒田軍からは「小西支援の余裕がない」との返事であった。吉統は、小西救援を自分で決めきれずに、さらに長政に相談すると称して、将兵六千人を置いたまま、七日朝、のこのこと鳳山の南方七里の白川(パクチョン)に移動している。小西軍の苦戦が伝えられる中、指揮者を失った大友将兵は混乱して、吉統を追って一兵のこらず鳳山から逃げ出した。平壌から撤退した小西軍がようやく鳳山城砦に辿りついたとき、城はもぬけの殻であった。

このとき、立花宗茂隊(遠征第六軍小早川隆景)は、平壌東方の牛峰(ウボン)砦にあり、八日早暁に小西軍救援に出ている。途中、竜泉(ヨンジョン)あたりで、撤退する小西行長と遭遇することができた。追いすがる明軍七〜八千を待ち伏せするかたちで、立花隊は明軍に反撃を加えて、平壌方向に追いかえした。救援要請を受けた小早川秀包と黒田長政と吉川広家が鳳山砦に入って小西軍の南方撤退を助けた。秀吉軍第六隊の平山(ピョンサン)砦の小早川秀包は小西支援で男をあげたという。散々な目にあった小西行長は大友大将の敵前逃亡を秀吉に訴えた。

吉統は「豊後の臆病者」と秀吉に烙印を押されて、朝鮮戦場から、身柄を毛利輝元に預けられることになった。そして、豊後九城すべてを秀吉に取り上げられた。渡朝軍は頭主を失って、朝鮮から帰国する国許がなくなるという一大事になってしまった。家臣の当惑は察するに余りある。たとえば、木付城主木付統直は、門司が浦まで来て自刃してしまった。父鎮直は木付城ににあって統直の死を知って夫婦で自裁してしまった。孫の清直が異国で戦死したことも身に堪えたのであろう。遠征大友軍の将士には、このほかいくつものの悲劇が起きた。

豊臣秀吉は、大友豊後領を取り上げて、先ず太閤検地をおこなった。検地の代官は宮部善祥坊法印継潤と、あの山口玄蕃宗永であった。そして、秀吉配下の家臣に小領国として治国させた。例えば、府内城と蔵入り地四万七千石は早川長政、臼杵城はまず福原直堯に、次いで太田一吉を張り付けた。そして、竹田城は中川秀成に、豊後日田日隈城は毛利高政、豊後富来城は垣見一直、豊前安岐城は熊谷直盛、栂牟礼城は毛利高政に、と秀吉の旗本に分配した。秀吉は慶長二年二月に府内城十二万石を福原直堯に預け、そして、前田玄以と杉原長房とを代官としていた豊後木付城には早川長政を府内城からまわした。こうして、大友家は鎌倉時代から四百年の領国を一挙に失う羽目に陥った。

吉統の朝鮮遠征中の留守を預かる嫡子義乗(よしのり)も府内城を追い出され、加藤清正に預けられた。つぎに、義乗の身を預かったのは、徳川家康であった。家康は義乗を江戸牛込に蟄居させたあと、秀忠の家臣に取り立ててくれたのである。このことを考えたら、関ヶ原合戦のとき、大友吉統は徳川の旗を振るべきなのである。

文禄の役では、清正と行長とは朝鮮戦役終決の方針で、対立を顕わにしていた。そのため、清正は秀吉から不興を買い、朝鮮から呼び戻され、対面をも許されない苦しい立場に追い込まれていた。明との妥結を急ぐ行長の北京交渉が、自分の意中とかけ離れたものであること知った秀吉は、今度は行長に死罪を言い渡した。前田利家と淀殿、それに外交文書の担当僧西笑承兌(さいしょうじょうたい)の必死のとりなしで、小西行長はやっと死をまぬがれた。行長にとって、妥協を見せない清正は困った存在であった。二人の対中国戦略は、妥協できない不幸な対立関係に終始したというべきであろう。秀吉は再び、加藤清正と行長とを慶長の役の遠征隊長として酷使する。秀吉の野望が、二人の有能な武将を惨めな戦場に追い込んでいた。

関ケ原合戦のとき、行長は友好な関係を続けてきた石田三成を助けるために、九州から長征して西軍に加わり、岐阜大垣城に集結した三成軍と行動をともにした。三成に組みすることが出来ない加藤清正は、当然のごとく、九州で東軍の旗頭として活躍した。豊後石垣原の大友吉統(よしむね)を攻めるために、阿蘇路を急行し、かた一方では、九月二十日、八千五百余で、小西行長がいない宇土城を攻撃した。宇土城の留守を預かる行長の弟〈小西隼人行景〉は、一ヵ月余り懸命に加藤軍に抵抗した。行景は兄が関ヶ原で捕らわれたことを知り、宇土城を開城、自刃した。

小西軍の本拠地の新宇土城は、佐々成政のあとに入封した行長が新しく築城した城である。築城に抵抗する天草五人衆(国衆)の一揆を、清正と行長が力を合わせて作り上げた城である。だから、清正は宇土城の破壊を禁じた。水軍にとって大切な城であることを清正は認めていた。それからの清正は急ぎ、筑後柳河に一千人ほどの軍勢で立花領瀬高(せたか)方面に出張った。宗茂と清正・黒田如水との交渉で、柳河城は開城したのであった。

方や、隠居を届けていた黒田如水は死んだ振りをやめて、黒田長政がいない中津城で現役復帰を図った。秀吉が没するやいなや、細川忠興に書簡を送り、天下の動きに注意しようと言う主旨を述べていた。豊前中津城の隣国には、忠興が領する豊後木付城(杵築城)があり、この頃は細川幽斎・忠興に接近する如水の意思が仄見える。関ヶ原で活躍する長政を支えていた如水は、中津城に蓄えた資財ありつたけを投じて、大々的に用兵し、にわかに中津城軍団を編成した。初めは、豊後の大友の旧領国や秀吉の直轄領、それに西軍に加わった豊前諸大名の城の留守部隊を次々と調略していった。なかでも、木付城に攻め込んできた毛利勢と大友吉統を退けて、細川忠興所有の飛び地を守ったのは大きかった。そして、大友家の再興を願う大友吉統を、石垣原で打ち破り、爾後の九州戦局を有利に展開することができた。

百戦練磨のキリシト者に対抗できたのは、小倉城の毛利勝信(吉成)ぐらいであった。勝信は秀吉の旗本のなかでも諸将に信頼される実戦派の武将であった。慶長の役のときのことだが、小早川秀秋〈うろんのきみ〉釜山浦司令官を補佐していた立花宗茂を更迭する要求を、宇喜多秀家方面司令官が奉行に出したことがあった。このとき、代替候補にあげられた人物が、この毛利勝信(吉成)であった。武将たちからの信頼が厚いことが覗えるが、戦闘の実力もかなりのものであったらしい。花も実もある戦国武将である。

豊臣黄母衣七人衆を謳われた武士らしく、この九州戦線の西軍方として、嫡子〈毛利勝永〉を関ヶ原合戦場に送り出し、自身は小倉領と勝永領とを預かり、西軍の闘将の役目を果していた。朝鮮遠征軍のなかでも出色の戦勲に輝く実力派毛利勝信の槍に刺されぬように、如水軍は激しい戦闘は避けて、筑前に侵入し、やがて筑後に転進していった。

関ヶ原合戦を終了して、毛利勝信(吉成)の身分をしばらくは、加藤清正が預かっていた。豊臣黄母衣衆であった山内一豊が、家康の許しを得て、この憧憬あたわざる先輩を新領国の土佐に、隠居の身分(一千石)で迎え入れている。勝信は毛利軍と黒田軍とが香春岳城を下したとき、秀吉側の寄騎として、高橋元種助命の取次ぎをしている。九州遠征に貢献したので、秀吉から、小倉城主に封じられていた。

勝信の嫡男毛利勝永は秀頼の近臣として、忠勤に励んでいた。関ヶ原の戦いで、毛利秀元軍に寄騎として加わった。戦場では一戦もせず敗軍になったが、戦後は父勝信と同じく山内家の世話になっている。この勝永は大坂の冬・夏の陣で、目を見張る素晴しい戦功をあげて、父の名を辱めなかった。夏の陣では、河内方面に出陣し、藤堂高虎軍を破っている。落城のなか、秀頼の介錯をしてから自刃した。男の中の男、豊臣家の旗本の鑑である。多くを紹介できないので残念だが、人望厚いこの毛利父子であった。勝信の創建になる小倉本就寺に伝わる束帯衣装の貴人が毛利勝信の肖像である、とする説を牛嶋英俊氏がしている。ここにメモとしておく。

さて、数奇な運命を送っている大友の若殿〈吉統〉の話に入る。九州の東軍・西軍戦役に、飛び入りするが如く、大友吉統(よしむね)が突然、豊後の戦場に姿をあらわした。文禄の役で、秀吉に見捨てられて、哀れな存在となっていた吉統は、関ヶ原の戦いのとき、長州から毛利軍を引き連れてのこのこと現れて、大友の旗を振った。豊後の人たちは無能な昔の頭領の出現に驚いた。

秀吉没後、吉統は水戸城佐竹義宣(よしのぶ)預けの身分を解かれて、徳川秀忠の家臣となっている嫡子義乗(よしのり)の屋敷に引き移っていた。これは、家康の取計いであった。佐竹義宣の忠告をうわの空で聞いていた吉統は、継室照姫と四歳の子長熊丸とを伴って、暗雲渦巻く京都に、恩赦に口添えを賜った帝にお礼言上するために出かけたという。ところが、京の宿本能寺で、毛利輝元の軍勢に照姫と長熊丸を質子として、かどわかされてしまった。キツネの嫁入り日が続くような京の政情をまるで判っていない吉統であった。毛利勢に人質をとられて、吉統は大友家の再興に賭ける心境になってしまっていた。

大友吉統は鉄砲百丁と軍勢と軍資金とを毛利輝元に与えられて、鶴崎に上陸、木付城を奪おうとした。永禄の役での失敗により、秀吉に見捨てられた吉統であるのに、田原紹忍ら昔日の栄光が忘れられない大友の衆たち大勢が吉統のもとに馳せ参じた。

木付城は別府湾北の海岸に流れ込む八坂川を眼下に、竹の尾台地に築かれた城である。三方水に囲まれ、攻めるに難しい城であった。島津家久が二ヵ月かかっても落とせなかった不落の城である。秀吉がこの世にいないことを幸いとして、慶長四年四月、大老家康は、慶長の役の奉行福原直堯を府内から追い出して、同じ朝鮮奉行早川長政を木付城からもとの府内城に戻した。空いた木付城六万石は細川忠興の飛び領地とした。文禄の役に軍勢を渡海させた細川忠興は武闘派七将の一人として、前田利家没後、秀吉の朝鮮奉行石田三成らを追い回していたので、家康が配慮したのである。

城代松井康之が守る木付城本丸近くまで攻め込んだのに、後詰に黒田軍が現れたということで、大友吉統は城攻めをあきらめて、立石に引き揚げた。黒田如水の軍はにわか傭兵が大半の雑多軍なのに、如水の智謀戦略を恐れることはなはだしく、吉統は木付城攻め途中で逃げた。

城を持たぬ野戦軍団はどんなことがあっても、城を攻め取らねばならぬのにである。竹田城を抜け出してきた田原紹忍が馳せ参じ、中途半端な戦をした。まるで戦略を持たぬ君主と武将の能力に劣る家臣との組み合わせでは、同じ結果しか出なかった。切腹をすすめる大友家臣に反対する田原紹忍の意見を入れて、吉統は黒田如水に降伏した。紹忍は一転して、東軍の中川秀政陣に加わり、臼杵城(太田一吉)攻めにまわった。そして、自滅するように戦死をしてしまった。

吉統は黒田如水によって江戸に送られ、家康の裁きで、出羽秋田の秋田実季のもとへ預けられた。佐竹氏預けについで二度目の幽閉である。慶長七年五月、秋田氏の常陸宍戸転封で、吉統も宍戸に移動した。世間が吉統の存在を忘れた頃、城外の鄙びたに涸沼川傍の小屋でたった一人の従者に看取られてひっそりと死んだ。慶長十年七月、四十八歳であった。

この大友吉統は特に宗茂と血縁はないが、近い姻戚関係にある。吉統の正室は吉弘鑑理(あきただ)の娘つまり高橋紹運の妹菊姫である。吉統からすれば立花宗茂は義理の甥である。そして、嫡男大友義乗(よしのり)の正室が立花宗茂の妹であるから、義乗は宗茂の義理の弟に当たる。後のことであるが、徳川幕府は大友家を高家として遇してくれた。これは、吉統・義乗を取り巻く、公家人脈が生きたものである。

吉統の後室照姫とその母〈少納言局〉と、照姫の女〈於佐古〉、照姫の父伊藤甲斐守たちが、大友家を支えてくれた。京都の少納言局は、後陽成天皇の第三皇子政仁親王(のちの後水尾天皇)の乳母であり、朝廷、公家方に繋がりがあったのが幸いした。後、〈於佐古〉は徳川秀忠の娘〈和子〉の入内に付いて京都に出た。こう言えば、大友家の救いの神は徳川家康ということになるであろう。佐竹義宣は「徳川殿の御尽力でござる。京都の帝もお口添え賜わったるよし」と義統に事情を語ったそうである。