15.武将宗茂、浪々の身

東西軍が激突した関ヶ原合戦が、慶長五年九月のたった一日で結着したことは、東西軍の首脳が予想しなかった展開であった。秀吉没後の天下は急展開をしだした。この章では関ヶ原合戦については、筆を止めておいて、戦後の九州動乱を描写する。

筑前で、まず如水は、近江から敗れ帰ってきた鍋島直茂を先鋒として駆り立てて、小早川秀包の久留米城を手に入れていた。その手管はみごとなもので、留守を預かる城代桂広繁を手玉に取るが如くあしらっている。秀包の室桂姫と嫡子元鎮を人質として押さえた。如水はさらに肥前軍と島原軍を使って、柳河蒲池(かまち)支城を大軍でおしつぶした。関ヶ原合戦で西軍として働いた鍋島直茂は、家康に許しを請うために、鉄砲を宗茂に向けてきたのである。島原勢を交えた肥前大軍に、宗茂軍は柳河城傍まで押し込まれた。このとき、伏見屋敷の丹(あかし)半左衛門が、やっと家康の「身上安堵の御朱印」を如水のもとに、もたらしたのであった。慶長五年十月二十二日であった。

関ヶ原の戦いのとき、美濃に入れぬ鍋島勝茂は西軍に加わり、伊勢で働きすぎた。これを知った父鍋島直茂はあわてて、勝茂に目立たぬように注意を与えたうえで、如水を通して、家康に接近するという姑息な手段を講じていた。勝茂は一転して、佐和山攻撃軍に加わって、東軍の側に立った顔をしている。宗茂は、そのようないじましい豹変はできないし、とても実行できない。また、黒田如水のように、要求するところは忘れずに要求する応諾の返事を、家康と石田三成の双方にするといった人を嘗めた真似も、宗茂はとてもできない。鍋島直茂や黒田如水とは人間が違うのである。

宗茂は加藤清正のすすめに従わず、関ヶ原合戦に参戦、また、ァ千代夫人の意見に反して、西軍に入ることにした。宗茂は「秀吉様の恩顧に酬いる」ことしか頭になかったので、長束正家、増田長盛、前田玄以奉行の「家康弾劾書」回覧に連署することにしたのである。家康がこの信義でしか動かぬ宗茂を扱いかねるのは、もっともだと私はおもう。朝鮮慶長の役のときのこと、清正が蔚山倭(うるさんやまと)城中に、明の大軍に囲まれて、落城の危機に瀕したことがあった。この明の大軍の中に立花軍一千人だけで突入し、肥後軍を籠城戦から救ったことがあった。このとき、宗茂は戦場の指揮者としてすばらしい戦功をあげた。この宗茂に対し、清正は終生、その恩を忘れなかった。

いまは敗軍の将の立場にある宗茂に接する清正の友情は厚いものであった。清正の仲介にたいして、謝意を表わすために、直接会談に出向いた宗茂の態度は、悠揚迫らざる堂々たる武将ぶりであったという。柳河の人はこれを「久末会談」とよんでいる。柳河の三橋久末(ひさすえ)にその記念碑がある。柳河から肥後に通ずる道は江之浦口と瀬高口の二道があるが、ァ千代(ぎんちよ)が柳河城の堀外の宮永館に自ら武装して、柳河を守る闘争の姿勢を示しているのを知り、清正は立花軍の戦意を外すために、遠回りの瀬高口から柳河領に入ったのであった。加藤清正の立花藩に対する心遣いであった。家康は清正に柳河攻め取りを約束していたが、清正は家康にたいして、宗茂助命の嘆願をしていたのである。私が思うに、およそ清正と言う武将は、如水や直茂とは心栄えが違う武将である。如水はやはり、秀吉が警戒するだけあって、油断ならぬ人物であった。こたびの如水・清正との和睦の条件は、柳河城開城、薩摩攻め先陣、人質差出の三つであった。宗茂の実母宗雲院は大坂立花藩屋敷から帰柳してまもなくというのに、今度は徳川方に身を預けることになった。宗雲院をまたも人質として送り出すについては、宗茂にとって心痛むことであったろう。

城を出た宗茂は、手勢を清正領高瀬(たかせ)に置いた。筑後と肥後の国境南関(なんかん)の近くである。十一月初頭に宗茂は如水の指揮下に入って、薩摩攻めのため肥後路を南下した。これには三池郡から高橋直次も合流した。宗茂は十月二十七日、島津義久・義弘・忠恒あてに、和睦を勧める書状を出している。柳河停戦して、五日目である。そこでは、柳河城攻防で、手痛い戦闘を展開したことをのべて『しかりといえども敵大勢、味方は無人ゆえ、手負戦死歴々について、居城際まで諸勢押し寄せ詰め陣候、しかるところ京都へ残し置き候使いまかり下り、まずもって御赦免の通仰せ出され候のあいだ、加主・如水へ理を申し、和談にまかり成候こと』 (島津家文書)と、関ヶ原合戦から柳河帰還後の状況を述べている。

 さらに『上方の儀静謐せしめ、東国まで残所なきしあわせ候、貴家御一分にあい極まり候条、一刻も早々御使者さし出さるべく候』と、天下の情勢を説いて、島津方の今後について懇切なる言葉を添えている。島津攻め軍は薩摩に入らず、国境の佐敷(さしき)・水俣に留まった。東軍諸将と島津方の交渉のなかで、宗茂は親身な降伏勧告に努めた。島津方が和睦の使者を派遣することでとりあえず折り合いがついたので東軍は十一月二十二日から撤兵を開始。宗茂軍は肥後高瀬に帰り集結した。

慶長六年十二月三日、宗茂は柳河城を清正家臣加藤美作守正次に渡して、これから、宗茂は家臣団の身の振り方について処置をした。清正から宗茂に、小岱山(荒尾)の麓地三万石を分け与えるとの申し出があったといわれる。宗茂は清正からのこの召抱えの申し出を丁重に断り、自身は家康と談合するつもりで、家臣団二百五十名ほどを清正に預け、そして、安東彦右衛門連直・佐田清兵衛成景を柳河家臣団の奉行として任命して高瀬に残した。

宗茂自身は、家康への釈明のために東上、十二月十二日着坂している。黒田長政に『この上はいらず候へども、万一身上も成り立ち候へば目出候、らう人一篇にも成り候はばこの前よりの御なじみまいらせ候間、御かげをも頼みもうすべくと存じ候』と書き送り、面談を果たした。西軍武将としては最も早く家康との面談を望んだ大名であったろう。家康は面談する意思がなかったので、宗茂の希望はかなわなかった。

家康は関ヶ原合戦に参加しようとした宗茂に対して、再三、九州に留まるように依頼したにも拘らず、また、これまでの友好的関係を壊すような行動をしたことについて憤慨している様子であった。東軍と戦った確信犯として、武人宗茂に再びその活躍の場を与える気持はなかったらしい。宗茂との信頼厚い関係にあった本多忠勝が、家康に対して、とりなしの言葉をかけることがはばかられるほどの家康の怒りであっ
た。

慶長五年十二月十二日、黒田長政と面談したあと、宗茂は高瀬の家臣団あてに『明国と戦った豊臣諸大名(西軍に属した)に対して、関ヶ原合戦後、いまだに代官を入れる話もない、私もしばらく留まるべきとのことなので、滞在費用を用意してほしい。家臣たちは高瀬に居て、柳河の国主がきたと言う話が出てきたら、黒田長政にあって、詳しく聞くように』と、申しやっている。先ほど、家康との面談がかなわなかったと述べたが、ようやく、代官は翌慶長六年二月に決まった。久留米藩と柳河藩には、家康にかねてから接近していた岡崎城の田中吉政が封入されることになった。これで、宗茂は浪人の身となった。

いわゆる関ヶ原の戦いの論功行賞が行われた結果、慶長六年二月、関ヶ原合戦西軍の大名八十八名の改易が決まった。宗茂も改易を言い渡された。加藤清正は小西行長領を加えた五十四万石の大大名、黒田長政は筑前五十二万石を宛がわれた。鍋島直茂は旧領安堵であった。島津藩は強固に家康と交渉を続けていた。

宗茂は加藤清正領に残した家臣団、弟高橋増次、夫人ァ千代(ぎんちよ)とその母宝樹院の居着くところを決めねばならなかった。肥後にとって返した宗茂は、家臣団百五十名を清正に預けることにし、家老小野和泉鎮幸(しげゆき)を清正の家臣に加えてもらった。清正は柳河藩筆頭家老を四千七十九石で召し抱えてくれた。また、家老立花賢賀は黒田藩に仕えることになった。宗茂の母宋雲院は、すでに黒田如水に預けられ、大坂の地にいた。

加藤領に滞在していた宗茂は、浪々に区切りをつけるために、慶長七年三月、清正に挨拶して、十時摂津、由布美作ら二十四名を同道、肥後を出発、同年春京都に住まう。これついて、清正の立花家中に対する配慮は行き届いたものであった。餞別金を用意してくれた。「江戸に着いたら土井利勝に会うことを薦める。拙者からも伝えておきます」と言葉を添えてくれた。また、肥後玉名郡腹赤村のァ千代夫人らに兵糧を届けて、小野和泉鎮幸に書状を送り、次のように述べている。『左近殿御内儀へ御兵糧まいらせ候ところ、御礼として飛脚給うについて、御状に預かり候、誠に御隔心がましき御礼など候えば、かえって迷惑せしめ候、しかるべき様に御心得頼み入り候、左近殿御身上落着の儀、到来はば示し預かるべく候』。肥後を発った宗茂の首尾を願い、徳川氏との交渉で何とか領主として回復することを期待しているのが判る。清正の希望する事態は到来せず、厚情もなかなか実らなかった。ァ千代は、慶長七年十月十七日、三十四歳の生涯を腹赤村庄屋市蔵の屋敷で閉じた。夫人が没したことを宗茂は京都で知った。

慶長七年は家康にとって、前年に続き繁多な年であった。上杉景勝の処遇は前年八月に済んだが、島津の処分が宙に浮いていた。ようやく、同七年三月に義久・忠恒連名の誓書が届いたので、処遇について検討した。島津へ懲罰を加えて、再び戦火を交えることは出来なかった。島津の粘り勝であった。義弘の謹慎、忠恒の藩主承認、旧領安堵というゆるい処分であった。その代わり、徳川の厳しい姿勢をしめすために、同年五月、佐竹義宣を、突然に出羽秋田(二十万石)に転封した。三十万石の減封である。すでに許されたと思っていた義宣は驚いたことであろう。義宣の弟葦名盛重(常陸江戸崎城)と岩城貞隆(岩城城)ともに改易となった。

家康は同年五月、諸大名に二条城の修築を命じて、徳川の実力を天下に示すことにした。島津忠恒はやっと十二月年末、伏見城に出てきて、家康に拝謁している。このあと、慶長八年、忠恒は薩摩に匿っている宇喜多秀家を駿府の家康のもとにつれてきている。西軍副大将宇喜多秀家は久能山に幽閉された後、八丈島送りとなり、終生帰国は許されなかった。

ところで、家康は慶長八年正月、大坂城で新春の年賀を諸侯から受けて、冠位従一位に叙されたことを発表した。そして、二月四日、これを秀頼に報告。更に、征夷大将軍の宣下を受けるために、三月に二条城に入り、拝受の儀式をおこなった。儀式に参列した供奉衆は自発的に集まった福島正則、池田輝政、細川忠興、京極高次であった。家康の京都滞在は十一月まで続いた。

家康が京都に来たため、京都市中警護が厳しく、大名に知人が多い宗茂は動き回れなくなったらしい。大坂に向かえば、豊臣との関係を疑われるし、逼塞状態になっていたようだ。慶長八年と思われるが、四月二十九日付、島津義弘充て書状に『拙者身上の儀、御尋に預かり候今にあい当たる儀これなく候、長々相済まず、迷惑御推察の外に候、しかしながら内々御別儀無き通に候条今日いと相待ち、日を暮らし申すまでに候』と浪々の辛さをのべている。家康の許しを一日千秋の思いで過ごしていた。

また、同八年であろうか、四月十五日付、由布七右衛門尉惟次・十時孫右衛門尉連貞充て書状に『今少し成次第、堪忍惟あるべき様に申し候、誠に以って寄特に存じ候薩州一着次第とのことに候べく候間、いま少しにて候』と島津の処分が済めば、と期待をしている。ようやく、島津忠恒が慶長七年の十二月末に家康の前に現れた。これを受けて、家康が薩摩の戦後処分を終えるものと、宗茂は期待をしている。だが、家康からの連絡はこなかった。清正が宗茂に寄せた激励の手紙で述べた見通しは、あまいものとなった。

失意の宗茂は、慶長八年初夏、江戸に出ることを決意した。肥後在留の小野和泉守鎮幸以下が贈ってくれた銀十枚を懐に、従者は二十人を超えぬ数に減らして京都を離れた。継室矢島八千(やち)を新たに加えた一行であった。七月、東海道の戸塚宿に着き、やがて江戸高田馬場の宝祥寺に入った。

継室八千(やち)について短く紹介する。秀吉から側室にと薦められた矢島秀行の娘。秀行は足利将軍義昭の子だが、若年で戦死したため、八千と八千の弟重成は、母方の祖父菊亭今出川晴季に庇護されていた。晴季は秀吉の関白昇進の後援者である。秀吉は晴季側の依頼で、宗茂が文禄三年十月〜慶長二年正月の伏見滞在中に、側室とする話をまとめたものである。慶長二年二月、宗茂が再び、朝鮮に渡ることになったので、八千の柳河への輿入れができなかった。八千の弟重成は宗茂の家臣となり、朝鮮に渡った。

関ヶ原合戦の口火となった丹後田辺城攻防戦のとき、八千は丹後城を預かる細川幽斎の手元にいたらしい。そして、宗茂が浪人して洛中滞在のとき、八千はようやく結ばれた。六年の婚約期間であった。八千は幼い時から細川籐孝(幽斎)に守られていた。八千の夫にと、宗茂を望んだのは藤孝だといわれる。足利将軍の庶子でもある藤孝は、今出川の縁戚であるので、幸薄い今出川の八千を宗茂に託そうとしたのである。八千は細川忠興・細川ガラシャ夫妻にも守られていたといわれる。洛中の宗茂熟年夫妻の仲は相琴瑟したものであったという。

ちなみに、藤孝の次男細川玄蕃頭興元の後室は宗茂の妹である。興元は、関ヶ原合戦の功労で、一時は兄忠興の小倉城の城代を務める身分であったが、忠興と折り合いが悪く、慶長十年ごろ幽斎の所に身を寄せていた。慶長十五年に幽斎が亡くなったころ、新将軍秀忠の覚えめでたい興元は、下野茂木藩(一万石)を貰って大名になっていた。本来は十万石をということであったが、兄忠興の反対で、一万石の小大名になったといわれる。その後、大坂の役に功績を認められ、常陸谷田部(やたべ)藩主になった。元和二年、秀忠の相伴衆となり宗茂と交誼が続いた。このように、豊臣秀吉と徳川秀忠の仲介に始まる立花家と細川家との結びつきは、今日に至るまで緊密に続いており、不思議な縁が続いている。

江戸に着いた宗茂を訪れる諸大名の中に、伊勢桑名城主〈本多忠勝〉がいた。忠勝は、慶長八年十一月江戸へ帰ってきた家康が、宗茂に同情していると伝えた。翌日、宗茂のもとに、忠勝から金子にそえて身の回りの調度一式がとどいた。宗茂が洛中にあって、浪々の身を嘆いていたときは、忠勝からの音信は届かなかったであろう。関ヶ原合戦後の家康は忠勝の宗茂取りなしを受け付けなかった。どうやら、家康の心中が変わりつつあると、忠勝は伝えてくれたのである。

江戸在住の一同は、寺での生活の糧を力仕事で稼いだという。十時摂津は洛中での托鉢と同じく、尺八托鉢を続けていた。慶長九年の冬、新宿牛込の掛茶屋が数軒並んでいるところで、三人の酔漢にからまれてやむなく、十時摂津は相手の刀で、袈裟がけ、首はね、胴切りと、あっという間に酔漢を切り殺してしまった。浪々の宗茂に累が及ぶのをおそれて、摂津は江戸町奉行内藤清成宅に出向き、牢に入った。翌朝、役宅の座敷で、三十年配の清成と土井大炊頭利勝(主席老中)の二人に会った。大炊頭は摂津の手際良さを褒めて、事件をとがめなかった。そして、宗茂の日常や家事のことを少し聞いただけである。大炊頭は甲冑一領と大小一腰、金子五十両を呉れた。大枚を呉れたのは、宗茂に渡せという意味であろうか。あと数日で正月という歳の暮れのことであった。

翌慶長十年正月二日、土井利勝からの呼び出しがあった。徳川秀忠の使者としての御用のむきであった。江戸城への呼び出しの前に、秀忠の補佐役本多正信が、高田の馬場宝祥寺の宗茂を訪ねている。正信は慶長六年十二月から関東総奉行の任に就いていた。十時摂津の尺八事件は、江戸町奉行の青山忠成、内藤清成とともに、本多正信が処理したのであった。この宗茂呼び出しは、正信たちの推挙のおかげであった。