
16.宗茂、徳川秀忠の直臣に
幸いなことに、慶長十年正月三日、秀忠から江戸城呼び出しを受けて、宗茂は土井利勝、本多正信の推輓で、徳川家の直臣となることが決まった。もちろん、家康の承諾があってのことである。ついで、二月二十五日、宗茂は大番頭に任ぜられた。五千石の微禄であるが、会社で言えば、秘書部警備課とも言うべき、徳川将軍に仕える職場である。秀忠身辺の近侍と警護の役目である。これで、宗茂は家康からの信任が厚いことがわかる。新しく御書院に働く大番頭は、新職場に毎日登城し、歳若の秀忠を補佐した。登城の都合で高田馬場から、浅草の日音寺に、後室八千(やち)と引き移った。宗茂は早や三十九歳になっていた。
慶長十年四月、秀忠は征夷大将軍になった。徳川幕府第二代の誕生である。家康が慶長八年三月に征夷大将軍になって二年しか経っていない。世間は豊臣秀頼が次の将軍になると、考えている者が多かった。秀吉恩顧の大名がまだ多く残っているので、秀忠が将軍職を世襲することは、政治的に危険な立場に立ったことになる。秀忠の周りには、年上で実力ある、経験豊富な東軍諸大名がいた。秀忠からすると、宗茂は一回り年上にあたるが、江戸城に顔を出す大名ほとんどが宗茂よりも年上か、同年輩の精神力強靭な武将たちであった。宗茂の生年と比べて、年配順に大名を並べてみると
藤堂高虎(宗茂比プラス十一歳)、福島正則(プラス六歳)、加藤清正(プラス五歳)、前田利長(プラス五歳)、加藤嘉明(プラス四歳)、京極高次(プラス四歳)、細川忠興(プラス四歳)、池田輝政(プラス二歳)、伊達政宗(同年齢)、黒田長政(マイナス一歳)
と、多くは四十歳を超える壮々たる武将たちである。二十代の新将軍が支配する大名の多くは、家康とともに戦国を生き抜いた武人である。宗茂はこれら武人と対面しても引けをとらぬ経歴と威風をそなえた人物であるから、将軍秀忠を介添えするときの宗茂は、若い将軍にとって、この上もなく頼りになる存在であった。
秀忠が支配する相手は、豊臣家や諸大名のほか、徳川一門と譜代の直臣など数は多い。家康は秀忠の為政者としての政治力量と職見とに安心はしていない。だから、慶長十二年から駿府に隠居したかたちになっても、家康は駿河国から江戸の将軍秀忠に指示を与えて、二頭政治を続けた。家康は本多正信と土井利勝の秀忠補佐を重要視していた。そういう次第だから、新将軍に仕える宗茂も、秀忠補佐役の一員として、懸命に仕えた。秀忠は、側に侍る宗茂の人柄に、次第に魅せられていった。
慶長十年新春、新征夷大将軍の宣下のために、家康・秀忠は上洛、伏見城に滞在した。同年五月、秀忠は諸大名から新将軍就任の祝賀を受けた。江戸幕府は同年十一月、江戸城に御書院番制度をつくった。将軍秀忠の護衛を目的で創設された組織である。御書院番頭四人、それぞれの組員四、五十人とされた。御書院番頭宗茂は秀忠側近としての任務に便利な神田川北、向柳原に屋敷をもらった。神田浅草門と上野浅草寺を含む寺町群にはさまれた一帯は大名屋敷と徳川家直臣・旗本の屋敷町であるが、書院番頭の屋敷もここにあった。
向柳原は徳川家の御書院番組、大御番組、御先手組、徒歩組長屋、馬廻り家臣と御蔵番の屋敷が並んでいる。上野の杜から流れ出た水流は不忍池から隅田川西岸の蔵前に向けて堀となり、向柳原武家屋敷を取り巻いている。書院番頭宗茂の屋敷は、水島町のうち御書院番組・大御番組が住む三筋の街路がある屋敷の西側に当たる敷地にあった。現在の三筋町の西側筋そして鳥越明神の北側に当たる。ここが書院番頭立花宗茂の屋敷である。そして後に、柳河藩になって、この書院番頭屋敷の北西側に、あらたに徳川幕府から上屋敷が与えられている。ちょうど佐竹藩上屋敷の北側になる。佐竹藩上屋敷は水島町に面する側に〈三味線堀〉があったものだから(三味線堀屋敷)と呼ばれていた。
江戸時代、正月に門松代わりに奴(やっこ)を着飾らせる「佐竹の人飾り」が名物であった。島原の乱の結末を早く知りたい佐竹藩の藩士が松明を焚いて船便を待った故事から始まったといわれる。殿様佐竹義宣と父佐竹重義はどうも剽軽者か、傾奇者らしい。
寛永十五年(1638)正月、島原の乱制圧に駆り出された立花宗茂は七十二歳の御老体であった。上屋敷の柳河藩士も島原の様子をどこよりも早く知りたかったであろう。また宗茂は浅草下谷(したや)の下屋敷衆を率いて出陣していたので、ここも正月の慶事を祝う雰囲気もなく張り詰めた緊張の中にあった。「人飾り」どころではなかったであろう。
宗茂が秀忠の近臣となる頃のはなしである。秀忠将軍と西の丸の大御所との間の緊張関係を示す実話がある。これは『徳川家臣団』(綱淵謙錠)から得た話しである。
慶長十一年一月のこと、上総国東金(とうがね)の御鷹場に網やわなが仕掛けられていた。麦苗をついばむ野鳥をつかまえるため、餌差しが鳥を獲っていた。関東総奉行青山忠成と内藤清成とが命じたものであった。たまたま家康が狩りに出てみると、自分の知らぬうちに網がしかけられていたので、家康は大いに機嫌を損じ、「将軍の下知であろう」と使者を江戸の秀忠に向けて遣わした。びっくりした秀忠は、養い母〈阿茶の局〉を通じて家康の怒りを解こうとしたが、家康は阿茶の局を引見もしてくれなかった。困った秀忠は本多正信に、青山忠成と内藤清成の腹を切らせようと相談した。正信は東金の御鷹場におもむき「秀忠につけられた青山・内藤が切腹させられようとしております。それがしも今ではすっかり年をとり、いつ腹を切らされるかもしれませんので、なにとぞ早く職を免じて、大御所のお膝元にお戻しいただきとうごさる」と家康に願い出た。正信は「秀忠が家康のことを恐れはばかることは大変なもので、この度の些細なことでも科なき青山・内藤両人に切腹申しつけようと相談がござった」と述べた。「こんなわずかなことででも、ご機嫌をそんじるようでは、いつもいつもお諌め申し上げているそれがしなどは、串刺しにされるのではないかと心配でござる」との訴えの意を汲んで、家康は秀忠と二人の総奉行を赦した。だが、秀忠は両人の閉門は解いたが、役職に復帰させることはなかった。
あるとき、家康は宗茂に言った。「一年余りよく尽くしてくれた。江戸詰め三万石をと思うがどうか」。宗茂は「拙者も武将のはしくれ、一万石で結構でございますから、城をかまえて一石一城の主になりたいと存じます」と答えた。家康は「追って沙汰いたす」といった。
慶長十一年正月、将軍秀忠から奥州南郷五千石の領地の内示を受けたといわれる。このときも、本多正信の支援があったようだ。南郷には砦とも言うべき小さな赤館(あかだて)城があった。〈南郷〉は佐竹義宣が秋田に転封となったあと、徳川幕府が天領として直轄していた戦略上重要な交通の要所である。南郷とは奥州南端の地の意味のようだ。宗茂の封入は、秀忠の大名人事が初めて通った大きな政治的動きであったといわれる。家康は「北国のきびしさを宗茂に知ってもらえ」といったらしい。南郷に宗茂主従が国入りしたのは、慶長十一年の秋だと推定される。棚倉町の説明資料では、慶長十二年に封入とある。だが立花側の資料は十一年末の記録があるので、数ヶ月の記録差と見たらよいだろう。この頃の立花藩の記録もすくないので、南郷国入りの日程などを確定させる必要があると、私は考えている。
宗茂一行は慶長十一年秋に南郷入りをした。赤館あたりは〈棚倉〉と呼ばれていたが、北国の農林業経営に大切な備蓄種の倉という名前から来たものと説明されている。樹木が多く、田畑が少ないので、寒冷地ゆえに産物が限られていた。このころは砂金採取がなくなり、米の生産量が少ないので多くの武士団を養うには難しい地帯である。将軍秀忠は気の毒がって、後から五千石を加増してくれた。一万石の大名誕生である。
十時摂津守は肥後に便りした。小野和泉守鎮幸ら、肥後在の旧臣は心から喜んだと思う。南郷の家臣団に対する知行充当状は、慶長十一年十一月十一日付きで、矢島重成五百石、十時惟益百石などが発給されている。当初は正信の配慮で、賦役は免じられていたが、やがて半賦役、そして、手伝普請にも応じることになり、しかるべき人数が必要となった。宗茂は清正に相談し、肥後から南郷に旧臣二十数名を移動させた。領地が狭いので、宗茂は肥後に置いた旧家臣の多くを抱えるとはかなわなかった。清正配下となっている宗茂の旧家臣団の身分確定願いが、宗茂から出された模様で、同年十一月八日、清正から改めて知行充当状が、小野和泉守鎮幸、立花鎮久、三池親家、十時太郎右衛門連秀、堀秀、十時八右衛門成重(摂津守家督)などにわたされた。
それでも、立花旧臣には南郷移住を望む者が多く、宗茂は清正に気兼ねして、移動希望する家臣を制する文書を出している。不足した人手は、南郷衆を採用した。ここに、私的な記録を加えさせていただく。南郷衆のなかに私の先祖石本六左衛門がいた。現在、柳河に移住してきた南郷衆として名を残しているのは、益子氏、東(ひがし)氏、石本氏それと奥州小路の何軒かだろう。
ここで少々、南郷の地勢と歴史説明をしたい。南郷は低い山を有する森林丘陵地帯であり、北方向は奥州、南方向は関東といういわゆる国境である。平地が展開する北側は、福島地方へと縦長に伸びて、阿武隈川が長々と、宮城岩沼に向かって流れている。宮城の方に向いた細長い平地を、今は東北本戦と新幹線とが並行するように走っている。関東から奥州に?がる〈奥州街道〉である。転じて、南側は標高千米をこえる八溝(やず)山が、厳然として立ちはだかり、事実上の国境をなしている。そして、南郷の西側は奥羽山脈の那須高原が広がり、また東側は太平洋に沿って繋がる阿武隈高地にぶちあたる。結構高い朝日山(約八百米)が赤館の北東にある。朝日山の南に久慈山塊が連なっている。
昔は、この赤館から朝日山の北面を回り岩城地方の太平洋岸に出る道が利用されたようだ。そこに〈勿来の関〉があった。いわゆる〈浜街道〉といわれる 常陸水戸―岩城―相馬―仙台 の古道があった。南郷中心に見ると、結局関東に出るには、久慈川を下るか、朝日山越えして〈浜街道〉を取るか、または〈奥州街道〉を取るかのいずれかであった。赤館の戦略的位置がお判りになったろうか。文章での説明では判りにくいところがあるので、地図を参照していただきたい。
福島南部の岩代地方と岩城地方は、戦国時代いくつもの地方豪族が領地をめぐって争奪戦を繰り返してきた。白河地方に限っても、白川氏、結城氏、芦名氏それに伊達氏が絡んで、果てしなく争いを続けていた。そこへ水戸太田の佐竹氏が勢力を伸ばして北上していた。秀吉が小田原征伐で関東に進出してきたとき、秀吉から常陸太田の安堵をうけた佐竹義重・義宣は、勢力を増大して、福島に進出していた。天正十八年正月のこと、南郷は佐竹義重と伊達政宗が直接対戦して、佐竹氏の勝利に帰していた。爾来、赤館城は佐竹氏一族が支配していた。
家康の上杉征伐のとき、西軍支援の態勢をとっていた佐竹義宣は、関ヶ原合戦後、父重義と東重久とを通して家康に陳謝し、江戸城修築に協力して、水戸佐竹の安堵を得たと思っていた。慶長七年五月、家康は、陸奥岩城貞隆、相馬義胤と義宣とを処分した。奥州南郷は徳川の直轄領となり、代官彦坂小刑部元正が管理していた。赤館に拠った徳川の代官は佐竹旧臣を使い、村請けの領地政策をとっていた。佐竹の話はこれくらいにしておこう。
慶長十四年三月に、家康から諸大名に清洲城破却と名古屋城築城令が出た。六月
に本丸石垣工事が始まっていた。築城に駆り立てられた諸大名に不満が出始めていたが、加藤清正や福島正則、毛利輝元らは普請を懸命に手伝った。傾国の秀頼側の焦りの動きがあったが、徳川方に揺るぎはなかった。この名古屋城は家光の四歳下の幼君徳川義直(家康九男)の居城であった。「家康の妾の子のためにこんな苦労をするとは」と福島正則がこぼしたところ、加藤清正からたしなめられた話しが伝わっている。義直の母は秋月種実の正室の姉である。石清水八幡社務田中家の分家志水宗清の娘 〈志水亀〉は健康な寡婦だったが、文禄三年 家康に見初められ再嫁し、駿府で元気な義直を産んでいた。
やがて慶長十五年七月、秀忠の書院番頭として、秀忠を十分に補佐した立花宗茂は南郷に下渋井村などの加増地を受けて三万石となった。この加増を機に、実名を統虎から〈宗茂〉と改めた。
慶長十九年十月、高橋直次は常陸国筑波に五千石を給され、宗茂に従って、大坂冬の陣に出馬した。立花宗茂は慶長十九年冬の陣と元和元年夏の陣で、秀忠の書院番頭として、秀忠を十分に補佐、秀忠の幕僚として、実戦で正確な指揮を助言した。夏の陣の幕僚としての戦功は、家康の信頼をさらに厚くしたといわれる。戦後、二万石の加増を受けて南郷五万石の藩主となった。
宗茂はさらに、元和六年十一月二十七日、徳川幕閣から、柳河再封の通知を受けた。宗茂から肥後の旧臣宛の通知十二月朔日付『よって、我等事、柳河・三潴郡・山門郡・三池郡拝領致し、まかり下り候、本領と申し過分の御知行くだされ外聞実儀これに過ぎず候、年明緩々とまかり下るべしと仰せ出され候間、二月末・三月始めころ入国たまべく候、万々その節申すべく候』と宗茂の喜びの気持が伝わってくる。家康と本多正信は元和二年に没していたので、宗茂の胸の中には、秀忠将軍を支える気持がわいていたであろう。
次いで、高橋家の三池再封が、元和七年正月十日に決定した。高橋直次はすでに元和三年に没していたが、嫡男種次が常陸柿岡藩を継承していた。柳河藩と三池藩がともに旧に復することになった。宗茂は浅草下谷、現在の都営大江戸線「新御徒町駅」あたりに、新たに屋敷を給された。
次いで、高橋家の三池再封が、元和七年正月十日に決定した。高橋直次はすでに元和三年に没していたが、嫡男種次が常陸柿岡藩を継承していた。柳河藩と三池藩がともに旧に復することになった。宗茂は浅草下谷、現在の都営大江戸線「新御徒町駅」あたりに、新たに屋敷を給された。
かくして、南郷藩赤館城は元和七年(1621)正月に、丹羽長重に渡された。立花家は二十年余で旧領柳河に戻ったのだった。代官十時摂津守は慶長十一年(1606)冬から十四年間、南郷の代官を務めたことになる。
新しい南郷の領主丹羽長重(宗茂の四歳年下)は、宗茂と同じく秀忠を助けるのに格好な人物であった。前田利長と越前で戦った長重は西軍に組みしたと見られて、十二万五千石の小松城を家康から取り上げられた。慶長七年、秀忠の取り成しで常陸古渡一万石、そして大坂の陣後、常陸江戸崎二万石を領知していた。今度は赤館城を宗茂から受け取ったのだった。
宗茂とともに秀忠の相伴衆となっていた長重は、愚直なまでに誠実であった。ふたりは奥州南郷赤館城(あかだて)を前後して領知した深い繋がりができた。後に、長重は赤館城を廃し、棚倉城を築いた。寛永四年(1627)には陸奥白河城を修築して十万石余の城主となった。二つの城を築いた丹羽長重は、若狭・越前・加賀三州の太守(百二十三万石)といわれた父丹羽長秀の遺産をこのとき使い果たしたといわれる。これも徳川幕府の大名政策の犠牲である。宗茂、長重はともに前田利長が嫌いだという共通点があり、気質が似ている二人は、秀忠のよき相伴衆であった。
丹羽長重は十五歳から家督相続したが、秀吉から佐々成政攻め、九州征伐遠征のときの家中の監督不行き届きを理由に四万石までに落とし込まれた。大藩を預けるにはふさわしくない若輩と、秀吉からみられた不運である。小田原征伐の戦功でようやく加賀小松城を預かる身分になったのであった。秀吉から丸裸同然にされ、前田利長から仮想敵視され、家康から隙を衝かれた不運な大名であった。徳川家の大名仕置きによく耐えて、丹羽長重は寛永十四年(1637)六十七歳まで生きた。なお長重の嫁は信長の五女である。嫡子光重は寛永二十年(1643)二本松に封入され、丹羽二本松藩の初代となった。織田四天王のなかで、幕末まで永らえたただ一つの家系となった。
ちなみに、父長秀は織田信長家臣四天王を謳われ、安土城普請奉行を務め、信長軍団の幕僚として重鎮をなす人物であった。正室は織田信広(信長の兄)の娘。長子長重のほか、藤堂高吉、蜂屋直政、長正、長俊、長次と四人の娘を残して、天正十三年に病死した。
秀吉の織田信長に対するこんな忘恩の話しがある。本能寺に信長が横死したとき、京都阿弥陀寺の和尚清玉が信長の遺骨を拾い法要を営んだ。信長の遺骨引渡しをこばんだことを根に持った秀吉が、天下人になってから阿弥陀寺を洛中から追い払った。信長の遺族をないがしろにするこんな秀吉に対し、丹羽長秀は病んだ内臓を切り取り秀吉に抗議の意味を込めて送りつけたといわれる。鬼五郎左の面目躍如たるところがある。
南郷農民の農神・水神に対する畏敬の念は、どの地方に劣らぬ真摯なものであった。南郷には神様に捧げる祈りのための宇賀神社が赤館城の一角にあった。慶長十三年、十時摂津守が代官として、土地の農神宇賀神社を三町ほど東側に新宮造営した。立花家としては、南郷に土着する気構えで、同化の一環として取り組んだものである。現在でも、立花家と宇賀神社との?がりが伝承されている。柳河のとんさん(殿様)が宇賀神社に詣でを続けている。(図の中、久慈川が西方に流れる)
それでも、立花旧臣には南郷移住を望む者が多く、宗茂は清正に気兼ねして、移動希望する家臣を制する文書を出している。不足した人手は、南郷衆を採用した。ここに、私的な記録を加えさせていただく。南郷衆のなかに私の先祖石本六左衛門がいた。現在、柳河に移住してきた南郷衆として名を残しているのは、益子氏、東(ひがし)氏、石本氏それと奥州小路の何軒かだろう。
ここで少々、南郷の地勢と歴史説明をしたい。南郷は低い山を有する森林丘陵地帯であり、北方向は奥州、南方向は関東といういわゆる国境である。平地が展開する北側は、福島地方へと縦長に伸びて、阿武隈川が長々と、宮城岩沼に向かって流れている。宮城の方に向いた細長い平地を、今は東北本戦と新幹線とが並行するように走っている。関東から奥州に?がる〈奥州街道〉である。転じて、南側は標高千米をこえる八溝(やず)山が、厳然として立ちはだかり、事実上の国境をなしている。そして、南郷の西側は奥羽山脈の那須高原が広がり、また東側は太平洋に沿って繋がる阿武隈高地にぶちあたる。結構高い朝日山(約八百米)が赤館の北東にある。朝日山の南に久慈山塊が連なっている。
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