
大阪の役 屏風絵
17.大坂冬の陣
慶長十九年十一月、家康は大坂茶臼山で、大坂城攻め評議。攻めに参じた万石を越える武将およそ九十以上、兵数は二十万超、大坂城を潰すのに、大げさなことである。福島正則、加藤嘉明、黒田長政、蜂須賀家政は手出しできぬように、江戸にとどめ置かれた。秀忠直参宗茂(南郷藩)は立花直次を伴って出陣した。慶長五年の関ヶ原出陣から十五年の歳月が流れていた。豊臣秀頼は成長して、二十三歳、大柄な浅井長政・お市の方に似てか、大身な若者であったという。真田信繁、後藤基次、長曽我部盛親、毛利勝永、明石全登など浪人となっていた武将が、散り際の武将働きを求めて大坂城に入った。木津川口戦、野田・福島の水上戦、今福・鴫野の戦いのあと、大坂城攻防戦。大阪城真田丸の信繁の活躍が目立った。豊臣方希望による和戦協定で一時休戦。大阪城二の丸・三の丸破壊、外堀は埋められた。
大坂夏の陣
慶長二十年、家康は秀頼に大坂城明け渡しを要求。受け入れられぬと知り、四月に西国諸大名へ出陣準備を命令。四月二十六日、豊臣方からの大和攻めで戦緒がひらかれた。宗茂は秀忠の旗本として、岡山口の秀忠陣に詰めた。大野治房が秀忠軍に迫ったが、宗茂の指揮でことなきを得て、宗茂を幕僚に加えた家康の配慮が生きたことになった。宗茂は大いに面目を施し、戦功により二万石加増された。五月八日、大坂城の秀頼・淀殿たちは城蔵の中で自刃、毛利勝永が豊臣の最後を見届けて自裁したといわれる。千姫は運良く生き延びて、父徳川秀忠の悩みの種となった。秀頼の側室が生んだ娘だけが千姫の庇護で、鎌倉の駆け込み尼寺東慶寺の尼僧として生き残った。秀頼の血筋はこの人〈天秀尼〉だけとなった。
徳川家康の生涯を語るのに
豊臣秀頼ならびに淀殿との関係清算を避けて通れない。大坂の役〈冬の陣〉〈夏の陣〉は慶長十九〜二十年、家康七十四歳の最晩年の合戦であった。三年前に京都二条城で会った秀頼は二十歳の堂々たる躯体の若者に成長していた。大柄な祖父母浅井長政・お市、母淀殿の血筋を受けて、立派な見掛けの青年となって家康の前に現れた。秀頼十五歳のときに、継嗣国松が生まれたということで、淀殿が喜んでいた。大坂城の前に徳川一族が馬を繋ぐことにならぬよう、家康は秀頼と淀殿とを大和郡山城に押し込めようと決心した。
秀吉が死の床で、家康・利家に秀頼の後見を、涙ながらに頼んでから十五年が経過していた。家康は秀吉との約束をほぼ守った。淀殿の妹小督(江姫)を秀忠の室として迎え、秀忠の長女千姫数え歳七歳の時、大阪城の淀殿へ手渡した。すべて秀吉の提案であった。
この十五年間、天下は徳川のものであることを家康は示してきたつもりであったが、大坂城に拠る豊臣側は、この現実を認めようとしていない。余命があまりなくなったと考える家康は、強引な政治を執ることにした。これまでは、豊臣秀吉の遺産を少しずつ切り崩したし、豊臣恩顧の大名の引き剥がしもしてきた。大坂城に近寄るキリスト教徒や関ヶ原浪人武士がたくさんいたが、「関ヶ原の戦い」から十五年、秀吉の近臣が減り、秀頼を支援する大名が少なくなってきた今こそ、徳川政権の永続のための手を打たねばならぬと家康は考えた。豊臣を圧迫するのに都合が悪い結城秀康、細川幽斎、浅野長政、真田昌幸、加藤清正、浅野幸長、前田利長、大久保長安らがこの世にいないので手を打ちやすい。
慶長十七年から、家康は対豊臣の動きを早めた。秀忠にこの仕事は任せられないので、家康はいろいろと悪役を演じなければならなかった。豊臣方に大坂城譲渡の交渉をしながら、邪魔になる人物を排除していった。豊臣の家老片桐旦元(かつもと)と〈織田有楽斎〉はその交渉の途中ではじき出された。それに豊臣人脈が頼りにする大久保忠隣、石川康長・康勝兄弟は徳川軍団から切り離されていった。豊臣家の行方を心配する福島正則、加藤嘉明、上杉景勝らは大坂から遠ざけられた。
真田幸村、毛利吉成・勝永親子、長曽我部盛親、木村重成、明石全登、後藤又兵衛、塙団右衛門、古田織部、増田長盛ら秀吉遺臣やキリシタンの行動が厳重に監視されていた。豊臣側は守備を固めるために、これら旧臣の支援を受ける工作をしていた。双方の対立機運は次第にたかまり、家康の仕掛けは成功した。
秀忠は徳川家臣団の統制を強め、徳川に忠誠を誓う人脈を揃えていった。宗茂の弟高橋直次を還俗させて常陸柿岡(五千石)秀忠旗本としたのも、その方針に沿ったものである。慶長十九年十月、家康は大坂攻めの出陣命令を下した。
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