
18.島原動乱起きる
圧政者松倉重政・勝家の終焉
肥前地方は、古代から朝鮮半島、遼東半島と交流があり、肥前・肥後の開拓は海とのかかわりを持ちながら発展してきた。近くは足利幕府時代に守護少弐、大内氏の影響をうけた貿易統制のもと、次第に国衆が頭をもたげたのは、ここ肥前西でも同じであった。
平戸島から玄海海岸線南沿いおよび有明海に力を持っていた有馬、大村、西郷、松浦、波多江、後藤、深堀の各氏は姻戚関係を持ちながらに互いに勢力争いをしていた。特にポルトガル・スペイン商船とキリスト教徒の受け入れについて、有馬、大村氏の突出は豊後大友氏と双璧をなすもので、肥前西の領土支配は竜造寺隆信の狙うところであった。竜造寺隆信が圧迫を加えていた永禄のころ、大村純忠(すみただ)は長崎や茂木をキリスト教会に貸与する形で、竜造寺隆信の圧力を逃れようとしていた。有馬氏は本領の高木郡、藤津郡、彼杵郡の領地を侵食されて次第に勢力を失っていた。天正十二年、島原沖田畷(なわて)の竜造寺隆信との対戦は有馬晴純の起死回生の一戦であった。
隆信死による竜造寺の衰運後に現れた秀吉はキリスト教会・宣教師に対する領土的警戒心が強く、大村純忠が天正八年、「ヤソ会」に寄付した長崎の一部と茂木とを没収。有馬晴純が寄付していた長崎大浦を取り上げた。秀吉はキリシタンに冷酷だった。特に武士のキリスト信仰を嫌った。初のキリシタン大名大村純忠のあとを継いだ大村喜前(よしあき)はキリシタンを弾圧して、のちの島原の乱の原因の一つとなっていた。
秀吉の時代を飛んで、徳川時代の肥前・肥後の話しに入る。領民をいたぶって治世を誤る領主は九州には幾人もいたが、その中できわめて評判の悪い領主が松倉重政・勝家の親子と長崎奉行竹中采女正重義(豊後府内二万石)である。島原藩の松倉重政・勝家は領民が生活出来なくなるほどの重税を課しながら、武士団を多く抱える軍政路線を続けた。今日の朝鮮半島の軍事大国に似ている。重政は大和から入封すると、まもなく、元和四年まで有馬直純がいた日野江城を取り壊し、雲仙岳の東部島原港の近くに、森岳城を築城したのであった。表高四万三千石で、武士団に百六十騎、鉄砲足軽二百を有する過大兵力を抱えていた。
松倉重政は筒井順慶(奈良)の旧配下の武士であった。関ヶ原合戦のとき、井伊直政に陣借りして戦場で活躍し、家康の目に留まった。奉行として才能を発揮する機会に恵まれた。慶長十六年には、内裏造営役に任ぜられている。大坂夏の陣で野戦での功績を認められて、元和四年、宗茂の柳河再封に先んじて、有馬直純が去った島原に入封。表高四万三千石、米があまり取れない土地なのに、十万石藩並みの租税をかけて、領民を絞りあげた。国力にすぎた軍備をして領民を苦しめて、田中吉政と似た領民圧迫をした。キリシタン狩りを竹中重義(豊後府内)にすすめて、雲仙地獄で長崎キリシタンの殺戮をおこなった。
時の将軍秀忠の権力を辱めるようなイスパニア船の御朱印船襲撃事件があった。高木作右衛門の朱印船を襲ったのは、イスパニア船であった。重政はイスパニア海軍の基地マニラを偵察するために二隻の船を送り出し、キリシタンの領国であるマニラの日本人街の査察などをしていた。重政は貿易による権益に異常に関心を持ち、キリシタンを憎む心が非常に大きい人物であった。入封した島原は、前任の有馬直純が幕府の意を戴して、領民のキリスト教棄教を強制し、真言宗温泉門徒や浄土宗徒と神社氏子に属させる住民対策を講じていた。直純自身が転向者であるが、その後のキリシタン対策をみると、父有馬晴信とは違い、真のクリスチャンではない。松倉重政のキリシタン弾圧は、前任者有馬直純の領民政策を踏襲するだけでよかった。
キリシタンに対する警戒心が強い徳川幕府の手先となろうとしていた松倉重政は、徳川幕府が命ずるキリシタン弾圧や幕府の特命を進んで引き受けることにしていた。特命のひとつに、宗茂が柳河に再封されたとき、改易された田中藩から城地を受け取り、立花宗茂へ受け渡しをすることがあった。このとき立ち会ったのは、重政のほかに四人の奉行、竹中采女正重義(豊後府内藩)、岡田将監善同(美濃国奉行・可児下切藩)、秋元但馬守泰朝(上州総社藩)、内藤左馬助政長(上総佐貫藩)であった。遠国から立ち会いに来た岡田・秋元・内藤氏は秀忠側近であり、徳川政権の奉行職を任された任地で開発と冶地・治水に優れた能力を発揮していた。
松倉重政のやっていることは、中国東北部における日本帝国関東軍による現地での謀略戦のような、危なっかしい暴走である。秀忠のお気に入り竹中采女と一緒に出すぎたことをした。長崎代官末次平左衛門からの借銀(金四千両相当)があり、利子も払えない放漫財政を続けていた。しゃにむに領民から税をとりたてたので、領民は貧窮の生活を余儀なくされていた。島原となんのゆかりもない大和地方からきた松倉親子には、領民への仁政を期待できなかった。松倉親子は領民から税金をしぼりとるために、キリシタン取り締まりに名を借りた恐怖弾圧の藩政を敷いた。それが、農民一揆の波として跳ね返り、島原半島の天下騒乱に広まった。
重政はキリシタン弾圧に熱意がありすぎたので警戒されたらしく、長崎で竹中采女と会合を済ませての帰りに、松倉領小浜温泉で急死したのだが、幕府筋から毒殺されたとの噂が飛んだ。
寛永十年(1633)は全国的に天候不順であった。正月に関東で大地震、春は大雪・長雨で琵琶湖大増水、島原の夏は旱天、秋は風水害で、近畿各地は洪水騒ぎ。島原では、寛永十二年(1635)から、作物不作が続き、疫病が半島に蔓延する天災が起きていた。全国の天候は、同年五月京都大風雨、六月遠江・伊豆暴風雨、八月風水害が全国的に多発、近畿圏の被害が大きく農民が苦労していた。島原地方では、寛永十三年も、前年と同じく稲作の花が長雨でやられ、裏作の麦は秋からの水不足で不作となった。農民は年貢を納めることが出来なかった。この異常気象で、肥後辺りまでの広範囲の地域が不作に苦しんだ。米がとれず食料備蓄が出来ない天草地方の住民は島原半島の領民と同じく食物不足に苦しんだ。
松倉藩の代官は、その領民に重い年貢を課したうえに、不作で税を納めることができないと、農耕牛馬まで取り上げた。農民は我慢がなりかねた。島原農民の強訴はキリシタンの反抗ではない。寛永十四年(1637)十月、有家村代官林平左衛門が農民から打殺され、口之津・上津佐・千和々・深江の村々が抵抗を始めた。島原城と城下が襲われ、一時は城下を一揆勢が制圧する騒ぎになった。藩政の非開明派岡本新兵衛があわてて、江戸の藩主松倉勝家に急使を送った。「爰元百姓共きりしたん俄に蜂起し」と文に書いているが、一揆は俄かに起こったのではない。農民からの訴えは切羽詰っていた。江戸幕府は松倉勝家に帰国を命じるとともに、唐津藩・佐賀藩・大村藩・諫早藩・福岡藩・久留米藩・柳河藩などに島原救助を命じた。また、将軍側近板倉内膳正重昌と石谷(いしがい)十蔵を征討使として島原におくりだした。二人は家光の近臣である。板倉上使は小倉に至り、細川藩にも天草出動を命じた。
天草は唐津藩の飛び領である。寺沢広高が寛永十年に没し、唐津藩は〈寺沢堅高〉が後を継いでいた。広高が存命であれば水軍を指揮して、このような天災に対して手当てをしたであろうに、二代目藩主は親に似ぬ凡庸な人物で、適切な手を打っていなかった。天草島民の困窮は捨て置かれていた。天草領大矢野島は、島原半島南部にもっとも近い島である。小西行長の遺臣や朝鮮で戦った古武士もいた。ここからキリシタンが蜂起した。島原の農民蜂起の波が波及してきたのである。
大矢野島の大庄屋渡邉小左衛門の義妹の弟ジェロニモ四郎と名乗る若者が、蜂起勢の象徴として担ぎあげられた。島原半島の一揆勢と呼応して、天草上島と下島の北部を復帰改宗したキリスト教徒が制圧し、とうとう天草富岡城の城代三宅藤兵衛が殺される一大事になった。一揆が起きたきっかけは島原半島と少し事情がちがっているようだ。
天草決起の農民はこのあと島原半島に渡った。天草決起の農民も島原領民と同じく、貧苦にあえぐ農民であった。あわせて、その数三万七千余となった。七千人ほどが戦闘能力を持つ男であったが、残りは女と子供、老人である。一揆勢は島原半島の原城址に立てこもった。島原と天草の領民は哀れであった。島原藩と領地を接する鍋島藩・大村藩は直接被害を蒙った。
第一次総攻撃で幕府軍は二千名余の死傷者を出して敗退した。第二次総攻撃で幕府軍は有馬勢を先頭に攻勢をかけたところ、四千名ほどの死傷者を出し総大将板倉重昌は戦死した。石谷十蔵は負傷、幕府軍は一揆軍にてこずった。派遣軍の苦戦に、将軍家光は驚き追加派遣軍を出動させることにした。
戦況をあまくみていた幕府は老中松平伊豆守信綱、大垣城主戸田氏?に加えて、水野日向守勝成や立花宗茂、細川忠利、黒田忠之、鍋島勝茂、有馬豊氏ら藩主を江戸から送り込み、寛永十五年二月二十八日、ようやく鎮圧に至たった。なお、水野勝成は関ヶ原戦で岐阜大垣城にこもっていた秋月種長を謀反させたあの日向守勝成である。徳川親藩で島原鎮圧に向かったのは水野氏だけであった。寛永十四年(1637)この頃になると徳川家の軍力が衰えてきている。
七十二歳の老体宗茂は、将軍家光の指示で、浅草の江戸下屋敷衆を率いて、二月六日現地に着陣。二月二十三日からの攻撃に参加、二十七〜二十八日の戦闘だけで、立花勢死者百二十八、負傷者参百七十九人を数えた。
島原半島北部に藩領を持つ鍋島藩は、他藩と協調する姿勢が見えず、鎮圧使松平信綱との申し合わせを破り、総攻撃前に抜け駆けをした。徳川幕府の軍監を困らせる鍋島勝茂・元茂は、義にもとる自己中心的な武将であった。関ヶ原合戦で西軍に属した負い目があるので、徳川家から信頼を得たいとする姿勢が強い藩風であった。このとき、徳川家光の信任厚い宗茂がどのような戦闘指揮をしたのか、興味がある人は別に参考書を紐解いてほしい。
暴政を行った松倉勝家は、幕命により美作で打ち首、治世を誤った寺沢堅高は天草領を取り上げられた。堅高は狂い自害したので、唐津藩はとうとう改易となった。
ここで、どうあっても「島原の乱」の総括をしなければならない。一揆勢三万七千うち女子供一万三千、幕府側一二万七千というとんでもない大戦悲劇である。原城一揆側はたった一名の絵師が生き残っただけで、一揆勢三万七千人は総て殺された。
幕府方戦死千五十一、負傷六千七百四十三という数字が発表されたが、被害実態はこんなものではない。島原半島の南部は無人の荒涼たる風景で、住む人がいないので、外からのキリシタンでない移民が奨励された。人影がない海と集落、鳥だけが飛び交い、夕焼けが美しい地獄の風景であった。この地獄の風景は為政者がつくりだしたものである。
家康が全国制覇をとげたとき、この地方は有馬晴信が、日野江城を中心に南方貿易へ勢力を広げていた。彼杵と長崎を拠点とする松浦藩の勢力とともに御朱印貿易船がポルトガル南蛮船にまじって海外に進出していた。
江戸幕府の直轄領となった長崎港で、有馬晴信がマカオで受けた御朱印船襲撃の報復として、ポルトガル定期船マーデレ・デ・デウス号を撃沈した。家康は長崎奉行長谷川藤広と本多正純の家臣岡本大八とを目付けとしてことに当たらせた。家康はポルトガル船を沈めた晴信を賞した。
家康の意向を作り話しした岡本大八の舌先三寸にのって、晴信は賄賂六千両を贈った。鍋島藩が諫早藩から不当に取り上げている藤津・杵島・彼杵三郡の返却を家康に願い出ていたつもりであった。竜造寺家晴が西郷党を追い出して居坐った諌早のうち、佐賀に近い旧有馬の地であった。家晴の上前を撥ねるようにして、佐賀藩がこれを取得していた土地である。いやしいキリシタン大八はすべてを自分の懐に入れて、これを本多正純に報告していなかった。ことがばれて、晴純と大八とが対決判定をうけた。結果、晴信が大八に引き込まれて死罪となった。晴信はキリシタンなので切腹を拒否したから、甲斐初鹿野において首を切られた。大八は静岡の浜で火あぶり磔になった。長谷川籐広にお咎めはなかった。
これから将軍秀忠のキリシタン弾圧方針がきびしくなった。嗣子〈有馬直純〉は父に似ず信仰心が薄い藩主で、幕府の方針に従い棄教し、正室小西行長の姪マルタを離縁、異母妹二人を殺し、〈本多忠政〉の娘を継室とした。忠政は本多忠勝の嗣子で姫路城主、新しい室は家康の孫・熊姫である。だから直純は秀忠が頼りとする外様藩主であった。直純は転向者ながら、島原のキリスト住民を弾圧していった。あげくには島原に居辛くなった直純は自ら希望して、慶長十九年、五万三千石日向延岡に転封となった。延岡城は〈高橋元種〉のところで紹介したあの城である。似非キリシタンは徳川家康とのつながりを頼みとする無情の男だった。
直純は島原の乱のときに日向延岡から四千人を引き連れて鎮圧にはいった。島原の人からみれば、直純は悪党である。そのあと、島原半島を引き継いだ松倉重政はキリシタンに対する憐憫の気持はなかった。長崎奉行竹中重義と組んで半島住民と長崎のキリシタンを絶望の淵に追いやった。
この一揆とは関係がないのだが、別のあるとき、小早川隆景が黒田長政に「分別」についてこう言っている。「分別に肝要なのは仁愛です。仁愛により分別すれば、万が一、理に当たらないことがあっても、そう大きな誤りにはならない。逆に才知が巧みでも仁愛のない分別は正しいとは言えないでしょう」。果たして、長政は言葉の含みを理解できたであろうか。隆景は幸いにも、島原の乱を見ることもなくこの世を去っている。仁愛のない政治の末路を見ないですんだ。この乱のとき、キリシタンに薄情な黒田長政もこの世にいなかった。
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