19.幸せなる晩年の立斎

島原の乱鎮圧を終えた宗茂は、寛永十五年三月柳河城に入った。元和九年から十五年振りの隠居立斎の帰郷であった。柳河住民は〈じっさい様〉帰郷を喜んだ。柳河訛りで「りつ」を〈じつ〉と口にする。たとえば「良成寺」を住民は〈じょうせんじ〉という。これは文法でいえば「リ音便」とでもいうのだろうか。いくら歓迎されても、宗茂は江戸へ戻って乱鎮圧の経緯を家光に報告しなければならなかった。寛永十五年春、立花宗茂を送り出していた下屋敷の立斎「定御供衆」の居残り浅草組は柳河からの連絡を首を長くして待っていた。

五月に江戸に帰着した宗茂は十三日登城、旗本田中主殿頭吉官(よしすけ)が書状で『飛州様御仕合せよく御目見え、昨十三日になされ候ところに、御ねんごろの御事にて候、心安かるべく候』と立花壱岐守惟与に述べている。立斎は将軍家光に「島原の乱」について懇ろに話したということである。それから将軍は以前にも増して、親密なる言葉をかけてくれるようになった。なお、吉官とは菅沼家から旧柳河藩の田中吉政の子田中吉興の養子になったあの旗本田中吉官である。

大御所秀忠が元気なときは、徳川親藩の江戸屋敷への御成りはまんべんなく、無事に済んでいた。また、将軍家光も秀忠の後をなぞるように、親藩邸への御成をくりかえしていた。大御所と将軍の御成に相伴していた宗茂は「老体には堪える」と忠茂にこぼしている。さほど、徳川親藩は順調に調整されていた。

小督(お江)が産んだ忠長は長ずるにつれて、織田信長そっくりの容貌になり、気質も性質もしだいに荒くそして粗暴になったといわれる。寛永七年ころ、忠長は付け家老朝倉筑後守宣正(掛川城)の諫言も聞かなくなり、近習を切り捨てたりする狂暴な行動をするようになった。さすがに、秀忠は苦悩して、遠・駿二国の藩主忠長を甲州へ押し込めにした。ところが、秀忠が体の不調をみせるようになって徳川宗家と徳川親藩との関係が軋みだした。忠長の存在も影響していた。

秀忠が寛永八年に病気がちになってからの、家光を取り巻く政情が次第に不穏になった。徳川家親藩に準ずる立場をもらっていた相伴衆立花宗茂は、徳川宗家にとって安心できる後ろ盾になったのではなかろうか。政権が変わるときの危険を封印することができる幕府の重臣の一人であるとみられたのであった。何よりも秀忠・家光の信頼があったので、将軍権限の移譲の潤滑油となってきた実績があった。将軍家光側は宗茂を大事に扱うようになっていた。しかし、大御所秀忠が寛永九年正月に亡くなってから、将軍を支える側から牽制が相次いで出された。忠長の自刃強制も一つである。熊本の加藤忠広の改易も関連がある。徳川宗家安泰のための政変であった。

大御所が亡くなり六年たった寛永十五年初夏、「島原の乱」の処理が終わって、将軍家の安定が続いていた時の話である。同年九月五日、立花藩下屋敷に将軍家光があらわれた。これまで尾張家、紀州家、譜代藩、他の大名屋敷へのお成りに数えきれないほど相伴してきた宗茂だが、家光は遠慮辞退する立斎の隠居屋敷を覗きたいと関心を示していた。九月三日、酒井忠勝邸御成のとき、相伴する宗茂に、(明後日)の下屋敷への渡りが告げられた。当日、将軍は立斎の住まいに遊びに寄るかたちで、袴もつけずに屋敷に乗り込み、終日ご機嫌で、舟遊び、網打ち、歌読み、月を愛でて、この上ない上機嫌で還御した。家光は父家康につながる重臣として、誰よりも宗茂を身近に思っているふしがある。国許の仕事を立花忠茂に譲るときに購入した浅草海禅寺前の下屋敷は、水遊びができる田舎然とした風物があった。上野山谷(さんや)の方から下谷を通り、隅田川につながる堀川に囲まれた隠居屋敷を将軍はいたく気に入ったようである。

それから一月半あと、再び酒井忠勝邸御成に扈従する宗茂に、家光は立花家の家督相続を忠茂とすることを許した。これまでは内儀の隠居であったが、正式に隠居が認められたわけである。将軍は「法体にて御側に心易く奉公するよう」仰せ出されたと細川家文書は伝えている。十一月朔日、立斎は黒書院勤めに初めて、法体で現れて、太刀目録を以て将軍にお礼を申し上げた。

寛永十六年(1639)、立斎は齢七十三歳。七月十八日「午刻、将軍が突然に下屋敷に御成り、機嫌よく過ごされ薄暮れ帰還」と細川忠利がのべている。この時、江戸城二の丸御池の白鳥一番を拝領したらしい。立斎、体が不調であったが、面目をほどこしたかたちになった。次第に老体になっていく〈りっさい〉に将軍は杖を下賜し城中の使用を許した。また、寒さ除けの頭巾を与えて、城中の勤めのつらさを和らげるよう言葉を賜った。

それから、寛永十九年十一月二十五日まで、将軍と隠居〈りっさい〉とは幕閣や細川忠興、品川東海寺沢庵和尚が感心するほどの親しいつながりが続いた。立花宗茂は多くの人の愛惜のうちに七十六年の生涯を閉じた。