20.「終り」に替えて

関ヶ原合戦を経て、いよいよ徳川家康の覇権への道行きが始まった。囲碁の世界に例えていえば、新本因坊が誕生したのである。本因坊戦七番勝負では、四勝先勝のために、対局者はいろいろと囲碁の作戦をくふうする。家康もまた、政治の世界で権謀術策を駆使して、徳川政権の樹立を目指した。そして、豊臣秀吉の遺産や人脈が消滅して徳川幕府が安定するまで、徳川三代は諸大名を取潰す粛清政治を続けた。例え徳川につながる武家や家臣であっても、政権を阻害する危険な人物は容赦されなかった。だから、諸大名は生き残りのために、必死に徳川政権にすり寄った。一度は徳川氏から離れた立場になった立花宗茂はその人格の幅広さで、家康・秀忠・家光から信頼を得て、武人として名誉ある生涯をおくることができた。

徳川幕府の政策は、長期にわたる支配を目指して財政基盤と行政組織を封建制度に拠ることにしている。分国をして、その土地を支配する武家集団と支配される農民を固定的な身分制度で縛るいわゆる封建制度を徹底的に指向した。そのためには、公家政治を遠ざけ、宗教を統制し、江戸時代の経済活動の基盤を農本主義で貫こうとし
た。

その時代の経済活動は、生きている人たちの日常活動から生まれるものであり、金通貨と銀通貨による藩の枠を超える経済活動が実経済を支えた。封建社会体制が経済活動から受ける影響は次第に多大になり、武士階級の支配者としての体制維持が難しいものになっていった。キリシタンの蜂起、農民の抵抗が起きて、事を起こした大名は責任を取らされた。島原動乱はそのなかでも、最大の事件であった。キリシタンの蜂起と解説されているが、実態は食えなくなった農漁民や徳川支配体制からのはみ出し浪人の絶望の果ての爆発である。当然、領主の失政である。立花宗茂はその動乱の鎮圧者の一人として、歴史証人になった。

立花宗茂は関ヶ原合戦で敗者側に立ったので、柳河城を取り上げられたが、二十年ぶりに再び旧領に帰り得た稀有な例となった。武将としてのその経歴は徳川家康が認める立派なものであり、江戸幕府における秀忠、家光政権の相談役的存在までになった。これは宗茂の生き様が立派であったので、諸人から次第に信頼を得るまでになった人物であることを将軍たちが知ったからである。

宗茂と同時代で、同じように誠実な生きかたをした人物としては、小早川隆景、島津義弘、浅野長政、細川幽斎、加藤清正らの先人のほか、小早川秀包、寺沢広高、丹羽長重、細川興元らの同志がいる。これらの武将は秀忠好みの人たちだ。徳川方にも本多忠勝、本多正信、土井利勝ら宗茂を理解する人物がいたが、宗茂の人柄を最も好んだのが徳川秀忠であった。どんなに不機嫌なときでも、宗茂が現れたら、秀忠のご機嫌はいっぺんに直ったそうである。

「ひと人を知る」までになるには、本人が人物としての成長がなければならないというのが、わたしの経験的持論である。青い人物だった頃の私は人を見る目がなく、恥ずかしい思いを何度もしたものである。秀忠は幼くして母を失い、父の側室茶阿の庇護の下に育てられた。偉大な父家康、おそろしい正室お江、剛毅な兄、才能豊かな弟たち、ゆだんならぬ春日局と家康の子家光がいた。また、狂暴な性格が表れた弟と甥、順調に育たなかった長男忠長、家康の多くの遺子や閨閥に繫がる譜代の家臣と外戚、そしてしたたかに生き残った織田信長と浅井長政の血脈など、秀忠の周りには将軍秀忠の権威を損なわせる危険な人たちがたくさんいた。忘れていた。和子の嫁ぎ先天皇家との交渉が大変だった。徳川家は朝廷にかかわりを持ちすぎた。秀忠は周りの人物を見定める目を養しなわなければならなかった。

わが子の成長を見守れないふがいない男親、秀頼に嫁がせた千姫の問題、家康の側臣からの牽制に対する政治的非力さなど、いくつものコンプレックスを抱いていた秀忠が、人物宗茂を知るようになり、自ら成長して、やがて将軍にふさわしい心の安定を得ることが出来るようになったのではあるまいか。

英国の歴史学者トインビーが「わたしたちは歴史に学ばなければならない」といっている。同感である。激動の戦国時代には、教訓となる事件、伝承、物語がたくさんある。信長、秀吉、家康、三成などの智将や安国寺恵瓊や黒田如水らの政治家、曲直瀬道三らの医学者など、傑出した時代の申し子が生まれている。そして、欧州から渡来した貿易船とキリスト教布教者たちの勇敢なる経済活動と宗教活動を見過ごすことができない。最近では千宗易や、古田織部、長谷川等伯など美学・芸術の巨人が、戦国時代の文化の世界で活躍したことを紹介する作家が出てきた。この時代には研究したい対象は数え切れないほどある。

歴史学の幅を広げるような研究がすすんでいる。織田信長が次第に凶暴になり、逆上してすぐキレるのは何故か、秀吉が女を見ればすぐに欲情し自制ができずに女性を押し倒すとき彼の脳はどうなっているのか、歴史上の偉人の脳と心の働きを解説してくれる学者がいる。心理学、遺伝学、医学の発達が歴史上の偉人の研究に側面から光を当ている。歴史学の多面的研究が進んでいるのが頼もしい。

最近、私は高野山霊場に出かけて、金剛大師と戦国武将の墓所に詣でた。金剛大師の霊場は奥ゆかしかった。ここで、霊場の最も大きい墓が秀忠夫人お江(小督)であると説明をうけた。織田信長という回天の偉業をなした偉人の血脈を継承する人が息づいているようで妙な気持になった。お茶々、お江、寧々など偉人の周りでしたたかに生きた女性たちを通して歴史を整理してみるのもおもしろい。高野山霊場多くの武将が祀られている歴史の現実があった。ここで、歴史をこの眼で見る思いがして、感慨ひとしおであった。全国レベルの人物がたくさんいる中で、宗茂に少しばかり傾斜して史実を取り上げてきたので、細かすぎる記録本位の著述になった。歴史の検証のために調べた資料を捨てきれずに「大名・小名・国衆・僧侶・町衆」を残したので、これらの資料を基に、もう一度興味にまかせて、宗茂の時代の歴史描写に挑戦したいおもいがある。 平成二十二年十二月 石本六左衛門