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25. 梅薫る朝 霧に消える命
姉妹仲直りで帰園の翌朝
3月上旬、梅花の薫りが裏山の林に流れていた。薄明かりのなか、朝霧がもやっと漂う静かな風景だった。このとき、ひとつの命が消えた。儚く生きた71歳の女性だった。仲良しが見守る中、ひっそりと灯明が消えるがごとく、魂が彼女から離れていった。ちょうど、朝霧に溶けるように。この方にふさわしい終焉であった。
彼女は、寒い気候のさなか、1月に喀血した。すぐに、施設から病院へと移送されて、治療がほどこされたが、余命は幾ばくもないと、いうことだった。喀血するまでに、相当に体を痛めていたようだ。精神的安定を欠く生活が続いていたので、私は気を揉んでいた。また、施設内の住環境も、私がみたところ、厳冬を乗り切るには配慮が欠けていた。建物の最上階、最端の部屋、しかも建物の壁側にベッドが置かれていた。冷気が天井から降りてくるような、場所に彼女は寝ていた。最初の私の指示は、外壁の冷気が降りてくる側と反対側の壁に、ベッドを移動することであった。これは、彼女の拒絶をうけた。右肺がつぶれていたので、一方側にしか体を向けることができないから、「廊下を眺める楽しみを奪わないで」ということであった。それではと、隣の部屋ごと入れ替えを提案していた。だが、間に合わなかった。
彼女と会ったときの初印象は、糸トンボのようなか細い人であった。20歳になる前から病気にかかり、50年近く闘病を続けてきた人なので、逞しさと縁遠い生活を続けてきた雰囲気を持っていた。ここでは、「彼女」という表現をさけて、「お糸様」と、呼ばせていただく。お糸様には、長い付き合いの療養の友が居た。友人との仲は、実妹に言わせれば、姉妹以上、夫婦に近い関係だ、ということであった。助け合って生きていた二人の間に、妹が入り込む隙間は、ほとんどないようだった。
森の溝 繋がって往く 糸トンボ
入所してから毎日、友人は夕刻にお糸様の介護に来ていた。友人は施設に対して、お糸様の代わりに要求する態度で、物申す風であった。施設の職員から、次第に嫌われていった。お糸様も嫌われていた。「あの人は自分から動こうとしない」「要求が多すぎる」「介護を受けても当たり前のようにしている」などの、声が私に届いていた。
私が判定するところ、お糸様の言い分に理があると思った。介護に対するお糸様の考えや主張に、やはり分があった。介護を受ける人としての忍耐と節度もあり、介護職員が非難するほどのものは、少なかったとおもう。お糸様は、ギリギリのところを生きている人であり、友人が心配のあまり、立場を越えた言葉を使っているところが障っている、と私は思った。例を引用しよう。お糸様は、お茶を飲もうとしない。「お茶は体の鉄分を奪う」「牛乳は骨の形成に役立つ」と考えるから、職員の奨める飲み物に手を出さない、口にしない。施設からすれば、厄介な存在である。養護を受ける人の尊厳は失いたくない、とお糸様は考えているから、屈辱を感じる場面では、じっと動かずに抵抗している様子だった。たとえば、食事介護の順番が後回しになっていても、お糸様は自分でスプーンを持つことをせずじっと待っている。自分から動こうとしない、ではなく動けないのである。職員が横に立ったままで、スプーンをお糸様の口に当てている。お糸様は、屈辱の思いに耐えて、憮然とした態度で、口中の食物を飲み下している。職員は非礼を働いているとは、思っていない。このギャップが問題なのだ。老人の気持ちを忖度するほどの思いやりや、優しさを持ち合わせている介護職員ばかりではない。介護する人と受ける人の間に、慈愛と友愛とが芽生える雰囲気はなかなか醸成できるものではない。このとき、「お糸様はわがままである」と、あなたは言いますか。
お糸様の晩年の精神的苦痛の原因は、生涯の療養の友との関係の清算である。実妹(入所後見人)に、父の遺産の処分を了解してもらって、友人が家を新築したのを潮に、金銭貸借の清算を図るということであった。裁判所の調停員が乗り出すまでに問題がこじれていた。幸せな家庭生活を営んでいる妹と、次第に精神的に離れるのと対照的に、療養の友との経済的な関係まで密接な関わりになっていった模様だ。正確には、妹と姉・姉の友人との諍いをしていた。ついに消耗したお糸様が倒れた。
病院でのお糸様の気持ちは、もう一度特別養護老人ホームに帰りたいということであった。医療側の判断は、病院でないととても無理という情報であったが、わが施設の看護長は、終末ケアを引き受けてくれた。身をもって受け止める姿勢がとても好ましかった。帰ってきたお糸様には、療養の友と、妹さんが付き添っていた。病院で療養するなかで、3人は和解していた。「園長、ご心配かけました」3人が異口同音にいった。
「園長さん、頑張りますので、よろしく」と本人さんが、笑顔で話した。心静かになった人特有の落ち着きを感じて、私は嬉しかった。翌朝、早めに出勤した私は、お糸様の魂が消えたことを知った。朝早く、介護にきてくれた友人が奨める白湯を口に含んで、静かに息を引き取ったという。私は句を捧げることにした。
梅が香や 憂きことさわに 霧に溶け
病み終えて いま静かなり 早霧消え
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