13. わたし若い、恋人を募集中
    孝行息子には言いづらい

 気持ちの若さ、というビタミンは、お年寄りに欠かせない体力と気力保持の薬だ。こんなに爽やかな若やいだお年寄りがいらっしゃる。
 彼女はN大学病院外科の看護婦だった。N医科大学専門部の看護婦養成学校の出身で、助産婦の免状をお持ちだ。原爆が長崎に落下したときは、海軍主計官夫人として、軍港佐世保に居を構えていたので、命拾いした。
 看護婦のお仕事も、そして一人の女性としても、存分の生き方をしてきたと、本人が仰る。なかなかに明るい人で、ご自分の若い頃の話を、笑い声を交えて、聞かせてくださる。「こんな話は、息子には話せませんけど」とおっしゃりながら、女として生きた楽しい昔話をしてくださる。
 医学部病院の看護婦時代は、産科看護婦でなくて、外科に回ることが多かったとのこと。そのとき、レントゲンの先生だった永井隆博士の仕事をご一緒にすることがあった。先生をこう紹介された。「とても温和で優しい方だった。奥様を大事にされていることも、職場で知られていた。いい先生でしたよ」。原爆が長崎に落ちたとき、彼女は佐世保にいた。とてもつらかっただろう。
 さて、このご婦人のことに戻ることにする。この方が、付属病院を離れることになったのは、医学部の先生と、諫早出身の美人看護婦との恋愛が、病院内で話題になったかららしい。ある日、父親から帰省を促されて、諫早に戻った。見合いを薦める人があって、看護婦さんは急ぎ呼び戻されたらしい。海軍主計官とのお見合いのあと、佐世保に住んだ。軍港は、激しい空襲に遭ったが、生き延びることができた。海軍将校は運よく帰還した。二人の間に生れた長男が、自衛官に就職されて、お二人は傍目にも、幸せな生活が続いたようだ。ご主人が亡くなったあとは、しばらく、奥様の佐世保独居が続いた。
 独居を続ける母親を引き取るとき、長男の嫁は、ありがちなことだが、暖かく迎え入れることができなかった。私から見て、こんなに明るい姑は、そうざらには居ないと思うのだが、難しいものだ。長男は、老人施設に母を預ける決心をした。息子さんは「ほんとに母さん済まぬ」という気持ちで、せっせと母を見舞いに来る。この頃は、母よりも先に倒れるわけにはまいらぬと、自動車に乗らずに歩いて通園している。すこしばかり園長のおしゃべりが過ぎたようだ。
 元看護婦さんは、「先生、まだ死のうごとなか」「お見合いしてもよか」「娘時代のことは、息子にはなかなか言えません。本心は、言いにくいもんですよ」と笑う。娘時代の切ない恋愛心情を思い起こすたびに ”青春よふたたび” と考えられるのだろうか。皆さん、この方の歳格好はどのくらいか、計算してみてください。楽しい話ですね。